〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/19 (土) さね もり さい (四)

夜明けまでに、平家の残影は、ほとんど地を払っていた。多くは越前境の山岳地へさして逃げ入ったか、また、大聖寺川だいしょうじがわ 以西へ出て、加越の境へ、思い思いな敗走をなお続けているものらしい。
翌朝、江沼郡の福田、熊坂方面の山中や三国街道などには、馬を射られ、力も尽きて、自害したらしい者や、さいごの奮撃をこころみて斬り死にしたような平将の死骸しがい が、なおたくさんに見出された。
それらのかばね を収拾した結果、木曾軍は、 「この一戦において、わが軍の た敵の首級は三千余人であry」 と陣前に公布し、そのうちの主なる首級は、義仲の実検に入れ、彼はそれを、 「篠原並木に けろ」 と命じた。
すると、その最後のころになって、手塚太郎光盛が赤地錦あかじにしき の袖にくるんだ一首級を解いて、
「なぜか、名は名乗らぬ敵でしたが、よそお い人品もいや しからぬてい 、平家の内にてもしかるべき大将と思われる者。昨夜、柴山がた のほとりにて討ち取りました。御一見給わりましょう」
と、義仲の前に供えた。
義仲は、じっと、首を見た。
赤地錦のよろい 直垂ひたたれ は、大将でなければ着ないものである。
ひとかどの将には相違ない。
まぶた のくぼみ、深くして数多い頬や額のしわ 。死に顔としても、年もよほどな老齢に見える。
(・・・だが?)
義仲は、あやしみを、眸にこらした。この死に顔には、どこか、調和が欠けている。
その人間の、ありのままな容貌ようぼう とは受け取れない、何かがある。
「光盛。・・・・なぜこの武者は、名を名乗らなかったのか」
「何故やら、意中は分かりませぬ。そのくせ、相手のそれがしに向かっては、しきりに名乗りを求めますので、木曾殿の御内、手塚太郎と申しましたるに、手塚か、よい者に会うたとばかり、いど んでまいりました」
「乱軍の中か」
「いえいえ、おおかたの平軍も逃げ去り、あたりには、はや平家の味方もなき砂山の松の木蔭に」
「ただ一人、ふみとどまって?」
「されば、死に場所でも求めていたかのように、いで組まんと申すゆえ、組みつきましたところ、思いのほかな手ごたえにて」
「思いのほかとは」
「死力をふる って、抵抗てむか いもせず、組みたおれて、刃を当てるや、あだかも、首を授ける心かのごとく、観念の眼をふさいでいました」
「その となっても、なお何も、言わなかったのか。最期の一言も」
「ありませぬ。・・・・いや、余りのあっけなさに、何やら後心地あとごこち さえ悪うて、じつのところ、誇らしゅう軍功として申し進む勇もなく、ただ今まで、差し控えておりましたわけで」
「・・・・はてのう?」
義仲は、しきりに、小首をかしげていたが、やがてもう一度、首級へ顔を近づけて、凝視に凝視を澄ました末、突然、
「樋口やある」
と、うしろへ向かって言い、
「樋口、樋口。ここへ来てみい。この首に覚えはないか」
と、語気あわただしく呼びたてた。
樋口次郎兼光は、何事かといった顔つきで、義仲のそばへ進んだ。そして、命ぜられるままに、首級をあらた めた。首級と対坐するように向かい合って、じいっと、ながめ入っていた。
「・・・・おおお、久しいことかな。まことに、相見ることは久しゅうおざるが、これなん、実盛殿さねもりどの にちがいない」
やがて、うめくがごとく、樋口兼光が、口のうちで言っていた。
そのそばで、義仲も、愕然がくぜん とし、ともに、首級を見直して、
「では、この者は、やはり長井の斎藤別当実盛にちがいないか。・・・・もしやと思う気はしたが」
「まぎれもない実盛殿です。お会いせぬこと、はや十年をこえまするが」
「したが、長井の実盛なれば、よわい は七十をこえ、いや八十にも近からん。・・・・この義仲すらせでに三十。・・・・それなのに、どうしてこの首級の髪は黒いのであろう?」
「殿、よう御覧ぜられい。かう、髪ばかり若々しいのは、白髪しらが を染めているせいでございまする」
「なに、白髪を染めているとな」
「あわれ、実盛殿のやさしさよ。死者の心根は、それにて分かりました。生きてお目にかからば、古き昔の恩を、木曾殿に求むるに似たりと、みずからそれは避けていたのでしょう」
「おう、おれには、忘れ得ぬお人だ。もし、この人なくば幼少駒若のころすでに、おれは、この世のものでなかったのかも知れないのだ。少なくも、実盛殿の手引きがなければ、おれは、木曾の中三ちゅうさん 殿どの に養われるの御縁も得られたか、どうか分からない・・・・
「義仲は、急に、顔をしかめて泣き出した。群臣の手前もない。常勝将軍の見栄もない。野性の率直さと言うのであろうか、彼は、ぼろぼろ涙をこぼしながら、やにわに、実盛の首をわが旨に抱いて、生ける人にいうように言うのであった。
「しまった・・・・。あなたの、こんな姿を見るのだったら、なんとか、義仲の手であなたをわが陣中へさら って来るのであったものを。・・・・とはいえ、そうしても、生き長らえている実盛殿ではなかったかも知れぬ。思えば、義仲の今日こんにち あるは、ひとえに、あなたの温かなお情けによるもの、それだけは、忘れてはおらぬ。実盛殿ゆるしてくれい、ゆるして・・・・」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ