〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/06 (日)  耳 遠 き 武 者 (二)

「いや、それは、経正殿の当惑も、無理ではない」
列座のひとり、薩摩守さつまのかみ 忠度ただのり が、救いを出すように、向かい側の座から言った。
「じつは愛発あらち の途中においては、はや、木曾勢の動きも察しられたゆえ、にわかに、兵を分けて、追分より椿坂、とち ノ木峠へと、一軍を、別な道へ差し向けたのです。・・・・そのため、人馬の組み替えに、数日を要し、先の軍は、敦賀に入りながらも、後陣はずっと遅れたわけでした」
すると、維盛はなお、気色ばんで、
「はて、そのような計を、たれにはか り、たれが許したか。維盛はまだ耳にもしておらぬが」
と、得心のゆかない顔をした。
「それは、こよい、わたくしよりお話申し上げるはずでした」
すぐ右の座にいた通盛みちもり の言葉だった。
越前三位通盛も、維盛と同格の大将軍であった。だから彼には、その資格がある。
「ほ、越前殿のおさしずか」
「後日になってと、お気を悪くなされたろうが、じつは献策する者があって、諸将も同意と申すゆえ、愛発の追分にて、一軍を別な道へと、分け りました。詳しくは、後に、申し上げますが」
「献策とは。・・・・たれの?」
「あれにひかえておる老武者おいむしゃ斎藤別当さいとうべっとう 実盛さねもり です」
「おう、実盛か」
はるか、末座の方に、その実盛は、具足の重さにひし がれているかの如く、背をまろく、すわっていた。
すこし耳が遠いのか、わが名を言われながら、その耳を疑うような顔して、まわりの顔を見まわした。列座の間から低い笑い声がわいた。
それも思わぬ愛嬌あいきょう になった。はからず一同の空気が和み、維盛の面にも、 くぼがのぼった。
またその維盛の笑くぼに気のついた人びとは、この大将の端麗な容儀に、みな、ひそかな愛憐あいれん の情を抱いた。
かつて、院の賀宴で維盛が “青海波せいかいは ” を舞ったとき、人びとは 「平家はおろか、公卿中にも、たぐいなき美男」 とたたえ、当時、少将だったので 「桜梅おうばい の少将」 と、呼んだほどである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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