~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
長 江 を 渡 る (六)
項梁は、項羽を召平に引き合わせるべく、南方の戦線に使いを出した。
毎夜、召平に対する宴会がつづいた。接待員は、ことごとく項梁の配下の将官級の者たちである。
たいていは項梁が呉中の町で拾上げた者たちだが、召平の見るところ、みごとな人物が多かった。
(やはり、項梁はなみの男ではない)
召平は、思った。はじめ項梁の読書人くささが召平の気に入らなかったのだが、これだけの将領を泥中から拾上げて作ったというのは、項梁の凄さといってよかった。
たとえば、鐘離昧(鐘離が斉)という者がいる。容貌は婦人のようながら、目もとに名馬のような悍馬気があり、そのくせ物腰が丁寧で、話題が豊富だった。
「わたくしは、昧と申します」
と、杯を寄せてきたとき、
(妹?)
と、同音の言葉を思い出すほどにやさしい声だった。
そのくせ、召平は威圧を感じた。両岸が吸い込まれるように大きく、言葉に静かなリズムがあった。
(この男は、智将であるとともに、三軍を叱咤する勇将だ)
と、思った。
聞いてみると鐘離昧は呉中の人ではなく、伊蘆の人である。諸方に友を求めて流浪していたらしく、召平が話しているうちに、共通の知人が多いことを知った。みな秦を怨む六国の遺臣や遺民意識の強い男ばかりで、鐘離昧が長年、各地のそのたぐいの者を求めて交際していたということだけでも、彼がどういう男であるかがわかる。要するに、秦に対する復讐の専門家であるらしい。
「韓信」
という名前も出た。鐘離昧の友人だが、召平もかつて会ったことがある。
「けたはずれの男ですよ。あのばかを」
と、鐘離昧は、愛情をこめて言った。
「今度の挙兵をしおに呼ぼうと思って手を尽くしているのですが、かんじんの時にどこに行ったかわからない」
と言って、笑った。後日のことながら、韓信はほどなく現れ、項羽の下について転戦するのだが、項羽に冷遇され、劉邦のもとに奔ってその武将の一人になる。
接待員の中に、季布という男がいた。
(季布が、項梁のもとでは、人物一等だな)
この目分量は外れない、と召平は思った。
季布はみるからに異相である。額が牛のように大きく、体つきもどこか牛に似ていて、立っていながら、くろぐろと野辺にうずくまっているように見える。鐘離昧のように悍気をあらわしているというようなところはないが、萱の葉で切り裂いたような切長の目が白っぽく、破顔うと愛嬌があった。
鐘離昧のようには能弁でなく、そのくせ聴き上手で、多弁な召平の言葉を、全身で聴くといった風がある。
季布はきっすいの楚人であった。にち、李布に死後まで楚人の間で語り伝えられた諺に「黄金百斤ヲ得ルハ、李布ノ一諾ヲ得ルニ如カズ」というのがあり、ともかくも李布は然諾を重んじた。彼がひとたび承知すれば百斤の黄金を得たよりも貴重だし、たしかだというのである。その精神に、策や計算がさほどになく、それよりも仁俠心のほうが多量で、おそらくこういう男が野戦の将軍になれば、智謀の士も争って彼の帷幕に入りたがるし、士卒も李布のためならわが身を顧みないというふうになるだろうと思われた。
(項梁の幕下は多士済々で、とても、北方の陳勝の流民の軍のようではない)
陳勝の王廷やその軍を召平は見たことがない。しかし、項梁のこの陣営は、すでに王国の骨格をなしている。
もっとも総帥ということになるとと、項梁よりあるいは陳勝のほうがすぐれているかも知れないと思った。天下を望むというのは化物のような気宇と気力と、ふしぎな運が憑いているという人物にしてはじめて可能で、元来が異常人だと召平は思っている。酒席で項梁を見ているかぎりにおいては、理解を絶した部分というのは無さそうであった。
(項梁も、むろんただ者ではない。しかしその人物によって押し上げられるのではなく、名流の末であるがために立てられているのだ)
と、思った。
2019/12/28
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