~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
長 江 を 渡 る (四)
項梁は、本来、流浪の人間だった。
妻もなく、従って子もない。女ぎらいではないが、女についての嗜好しこうがかたよっていた。いわゆる美人を好まず、小柄でひ弱そうな、後家相といったようなふうの、いかにも不幸が翳に出ている女を好んだ。家庭をなさないために、彼の女たちは各地で暮らしていて、彼の来るのを待っている。女がつねに孤閨こけいにいて、旅人の彼のやって来るのを待つという、その状態そのものが女にとってたまらなく不幸だが、項梁にとっては愉悦であるらしい。
呉中にも、女がいる。
市中の陋屋ろうおくに住んでいるのだが、項梁がこの一郡の支配者になり、もとの郡守の広壮な第館だいかんに住むようになってからも、彼は女と同じ屋根の下に住もうとはせず、自分から出かけて行く。
奇人といっていい。
(不用心な人だ)
おい・・の項羽は、あやうんでいる。項梁の身分は、王侯にひとしい。彼を殺してその地位を奪おうという者がいないわけではないのに、もとの流浪の老書生のようにこの男はひとりで町を歩き、ひとりで女の家に入る。
これについて、項羽がたまりかねて言ったことがある。叔父上はなぜ妻を迎えて一家をなそうとなさらないのか、せめてしょうを室に入れようとされないのか、身が王侯にひとしくなってもなお市中を一人でお歩きになるなどは威信にかかわる、さらには身の安全からいって卵を岩の上で転がしているようなものだ、と言った。
項梁は他のことにかこつけて適当にあしらっていたが、ついに、
「羽よ」
と、言って、手招きしてひざまずかせた。項梁は中腰になっておい・・の耳もとに口を近づけ、ささやいた。
「おれには、子だね・・がないのだ」
と言ったとき、この初老の男が、少女のようにはずかしそうあn表情になり、すぐさま座にもどってそっぽを向いた。表情が暗くにごっていたのは、自分への嫌悪のせいであったかもしれない。
漢民族の社会にとって、この時期、子だねが無いというのは、人倫の上で不具に近かったのかも知れない。先祖崇拝こそこの文明の形而上学であり、宗教であった。先祖の祭祀さいしを絶やすことが不幸の最大のものとされた。子供をつくれないということは祭祀をする能力が無いということであり、項梁は自分のそういう欠陥を感じすぎる男で、そのために家までなそうとしない。
「いわば、人としてはずれ者だ」
項梁は、目を据えていった。項燕こうえんの子にして今世にるのは末っ子のこの項梁のみであった。没落貴族とはいえ、彼は項氏の長者たるべき位置にあるが、しかし子がなせないために自分をひそかに項氏の家計上の外れ者としている。
「が、たとえそれ・・が無くとも」
妻を迎え、家族をつくればよいではないか、と項羽が言うと、「それは、お前のために妻というものを迎えないのだ」と項梁は言った。
項梁によると、自分は天下を取る、もしこの会稽郡の郡守として妻を迎えれば妻は皇后になる、となると妻の一族というものが勢力を占め、結局、自分が後継者だと思っている項羽をないがしろにするか、悪くすれば殺す羽目になるだろう、と言うのである。
「ゆくゆくお前に項氏の祭祀をさせる。わしはお前を太子にするための外れ者でいいと自分で思っている」
この話は、外れ者を自認しつつ皇帝になるというのである。項梁の話はつねに筋道が立ち、規模も大きかったが、しかしその女好みのかたより・・・・に似て、ごこかいびつで、どこか寡欲かよくで、隠者めいていた。隠者めいた男が古来王朝をおこしたことがあったろうか。
(叔父は、本気で皇帝になろうと思っているのだろうか)
項羽のような他人の気持ちを斟酌しんしゃくしない男でも、項梁のこの点については、首をかしげざるを得ない。
(変ったお人だ)
と項羽は思いながら、かといってこの叔父を尊敬する気持ちには変わりがなかった。
2019/12/25
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