天皇は、学問を清原
頼業よりなり
にうけられた。音楽の才藻さいそう
もゆたかに、また、幼時から詩もよくお作りになった。 で、この秋には、紅葉賦こうようふ
を創作つく
られたりして、その一樹を大切にされ、近習の藤原信成に、 「お汝こと
を、楓守かえでのかみ
に任じよう。常々にもよく、楓の木を守るように」 と、お戯れになったくらいである。 かりそめの仰せとはいえ、御切愛のほどを知る信成は、炎日の灌水かんすい
にも、気をつけて、楓の守もり
を心していた。 ところが、この楓は、三年待って、たった一年、そのすばらしい紅葉を見たのみで、次の秋にはもう姿もなかった。 ──
と、分かったとき、近習たちは、たいへん狼狽ろうばい
をし合って、 「何者ぞ、御鍾愛ごしょうあい
の楓を伐き
ったるは」 「下手人は、たれぞ」 「楓の守も
り人びと
もあるに」 「きょうまで、知らずに過ごせしこそ、奇っ怪なれ」 と、さながら、人命問題みたいに、いやそれ以上な大事件のように、いい噪さわ
いだ。 よくよく調べてみると、数日、信成が出仕を休んでいた間に、無智な庭掃除の仕丁じちょう
たちが、さしたる木とも思わず、伐って、焚火たきび
に焚いてしまったものと分かった。 「さては、信成の懈怠けたい
にこそ」 人びとの騒ざわ
めきを待つまでもなく、信成はもう死ぬ方法を考えているふうだった。茫然ぼうぜん
、御溝水みかわみず
の辺りにひれ伏して、
「陛下のお召しぞ」 と近習が声をかけに行っても、立ち上がる力さ失っていた。 すると、高倉天皇は、御自身、沓くつ
をお履きになって、庭面にわも
へ立ち出でられ、 「──
唐詩とうし
に、有名な楓の詩があるのを、お汝たちは覚えているか」 と、左右の者を、おながめになった。 たれもが、ちょっと、思い出せない顔をしていると、 「それは、こうぞ。・・・・林間リンカン
ニ酒ヲ煖アタタ
メテ紅葉ヲ焼タ
ク。・・・・なんと、優雅な酒の飲みようではないか。そのような風雅を、そも、たれが仕丁たちへ教えたのであろう」 明るい御微笑の下に、さも、興味あることのように仰っっしゃたのである。 口さがなく、他人の罪をいい噪いでいた人々も、はっと、叡慮えいりょ
のあるところに気づいて、信成とともに、ひとしく感涙を流してしまった。──
ということのあった日を、秋になり、紅葉を見る季節になると、宮廷の臣は、年々、胸に染め出して、木は見えずとも、胸の紅葉を燃え映えさせた。 清盛も、その話は、聞いている。 けれども、彼が目に見ても、今なお、心に沁し
みているのは、生みの御母
── 建春門院けんしゅんもんいん
滋子しげこ
(清盛の妻時子の妹) が、去年、崩なく
なられたときの陛下のお窶やつ
れ方である。寝膳しんぜん
も廃はい
すということばが誇張でないことを、清盛は、その前後のおすがたに見た。 母を慕うこと、そのような子である。 そのこの口から、父法皇の憂いを言われるのが、清盛には、何よりも、心にこたえた。理も非も措お
いて、ただ恐れ入るほかない姿の浄海入道になってしまう。 その清盛は、次の日、福原へ立った。 暑気のせいか、あるいは、危機を切り抜けた疲れが出たのか、淀川をくだってゆく船中の彼には、これまでにない憔悴しょうすい
の色があった。 |