〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-W 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (五) ──
火 乃 国 の 巻

2013/06/30 (日) い つ く し ま の ない (一)

時を、さかのぼって、物語は、もういちど、治承元年の正月へ、もどってゆく。
以後。── 日時は、これまでと同じであるが、同じ月日の下に、都では、どんな時潮のきざ しと、人間たちの動きがあったか、伊豆から中央へ、視野を移るわけである。

「思いながら、日ごろはつい、ごぶさたばかりいたして・・・・」
蔵人くろうど重兼しげかね は、広縁にすわって、あいさつをしかけた。取り次の青侍あおさぶらい は、彼をおいて、退がってゆく。
徳大寺家には、寝殿のすみ に 「歌の間」 とよぶ閑雅な小部屋があった。
後徳大寺ごとくだいじ 実定さねさだ は、そこの歌机に、ぽつねんと、ひじ をついていたが、
「ああ重兼か。なんの遠慮、ずっと、はいるがよい」
と、障子の蔭から、顔を見せた。
治承元年の二月きさらぎ の初めである。
檜垣ひがき の紅梅は、ふくらんでいるのに、下の日蔭には、春の淡雪あわゆき が、子猫ほど、溶け残っている。
「ことしは、御年賀にも、さん じませいで」
「なんの、 の気ままで、こう、去年から客を避けているのじゃ。詫びには及ばぬよ。── が、ほかならぬそちのことゆえ。特別に会うてやる。世間へは、実定に会うたなどと、いわんでくれい」
「はい、はい。お申しつけなれば、申すことではございません」
「正月中も、一度とて、外出そとで もしておらぬ。・・・・面白うない世間だからのう」
「お引きこも りは、御病気のためとも、伺いましたが」
「いや、表向きはだ。世を吹く風の物憂ものう さはどうかよ。鬱気うつき にも取り かれたようではないか」
「はて、それほどな、御不平とは」
重兼はわざと、空とぼけた。
後徳大寺の君が、このところ、世をはかなむばかり、悲観して、出家するとまで言っている。その原因が、何なのかは、世間でさえ、知らない者はない。
まして、蔵人の重兼は、実定の弟、川原の大納言実家の諸大夫である。いわば後徳大寺家とも、主従同様な男なのだ。実定の不平は、読めすぎている。
案の定、実定は、不機嫌になった。
「さてさて、無用な者を招き入れたわえ。 の心も まぬ者と、会うのではなかったに」
「これは、口惜しい仰せを ── 」 と、重兼は、ひざをすすめた。
平家の耳もはばかられますゆえ、わざと、お胸のつぼを らしてお答えしたのです。まことは、わたくしとて、残念でたま りません。── そこで、御無念を解く一計を案じつき、かくは人目ひそ と、参上いたしましたものを」
「ふうむ。では、重定が楽しまぬ胸のうちを」
「お察しできないでどういたしましょう。── 当然、御当家の上に来るべき次の栄位を、相国しょうこく (清盛) の御嫡子や御次男に えられたのでは」
「アアもういうな。分かってくれさえすればよい」
「いえ、いわねば腹ふく るるということわざ もありまする。今日は大いに御不平を伺おうではございませぬか。 鬱気うつき も晴れましょうに」
「そうか」
と、実定はすこし気色を直した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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