帰京第一に、清盛は衣冠して、参内した。長時間の拝謁
をとげた。お若い陛下にとっては、清盛は恃たの
む者の一人であった。 二代の后として、多子を入内じゅだい
させる思し召しの時も、清盛は、力であった。恃たの
みがいある者と、そのときの彼を、お忘れはない。 けれど、その清盛が、おなだめしても、事、上皇とのおん仲についてとなると、すぐ御不興な御気色みけしき
になった。 時忠のことには、少しもお触れにならない。 一日おいて、彼はまた、院の御所へ伺候した。 上皇は、あかねて、時子へ策を与えてやったことが、この良人によって、実行されたので、ひそかに、得意な御容子ごようす
であった。 厳島の風光、くさぐさな船旅の土産話など、、一わたり、すんでから、清盛は装束の袖そで
を正して、上皇のお姿を拝した。 「改まって、奏聞そうもん
に達しまするが ── その厳島で、わたくしは、七日七夜の参籠さんろう
のうちに、はからずも、伊都伎いつき
の神の夢告をうけました」 「ほ、夢告をうけたとか」 上皇は、不信心な清盛が、いつにない真面目さに、うかと、まにうけられた。 「されば、たしかに、神のお告げぞと思われました。──
と申すのは、松風、波の音のこころよさに、ふと、まどろむうち、たなびく紫雲の上から、こう聞こえたのです」 「おお、伊都伎いつき
の神よの」 「── 聞けよ、清盛。なんじ、まことに世を憂い、上皇に忠ならんとする者ならば、仙洞に伏奏し奉れ。天に二つの太陽あることなし。さるを朝廷あり、院政ありして、政令二道より出る。いかに、世のは乱れを起こし、民には塗炭とたん
の苦しみを与えて来たか、前朝ぜんちょう
の例にも見るも」 「待て、清盛」 「はい」 「夢か。・・・・それは」 「夢です。・・・・わたくしの身は、女車に乗って、波間の上を、走っています。そして、二匹の雄狐おぎつね
と雌狐めぎつね が、車の先を、跳と
んで行くではございませぬか」 「あはははは。アハハハ」 上皇は、突然、胸を反そ
らせて、お笑いになった。 清盛は、もっと大声で笑いたかった。── が、彼は、懸命に、なお真面目くさった。 「そいう夢でした。いや、わたくしは、時子のように、夢話が上手じょうず
ではございませんが・・・・」 「わかったぞよ、清盛、もういいもういい」 「お解けになれば、ありがたい仕合わせです。何をか、これ以上、申し上げましょう。御父子のおん仲なるに」 ふと、上皇は、お顔を横に反そむ
けられた。清盛は、なお根気よく平伏をつづけている。 「・・・・いや、慎む、清盛、心配すな。二条も我が子、なに憎かろうはずがあろう」 清盛は、燭しょく
を見て、退出した。まずこれで一時、小康を見たものと思っていた。 ところが、十月に入ると、また、上皇の近臣、右馬頭うまのかみ
信隆、左近衛さこんえの 中将成親の二名が、突如、朝廷から、官職を褫奪ちだつ
された。 理由は一切、発表されない。 ただ臆測おくそく
や風説はいろいろ飛ぶ。 上皇の御立腹もさだめしだろうに、なぜか院は、緘黙かんもく
を守っておられる。そこに、上皇自身としても、何かひけ目があるにちがいないと、みなささやいた。そしてまた、院のある画策が、朝廷方の粛清によって、いまや一挙に、水泡すいほう
に帰したのだ、という者もあった。 越えて、翌年の三月。 天皇は、かつて、上皇の命によって、阿波あわ
へ流されていた平治の乱のさいの流人、夕顔ゆうがお
ノ三位さんみ 経宗つねむね
を、特赦して、阿波の配所から呼び戻された。 そして、元の重職に復し、近習の列に加えて、いよいよ積極的に、御父後白河の院政に対して、抗し給うの態勢を、誇示あそばした。 ここで、思いがけない返り咲きに会った経宗は、 「待てば、こういう開運の日も来るか」 と、阿波から帰参の後は、側近にあって、ことさら忠誠ぶりを、みせていた。 もとより才さい
長た けた男である。時感に敏びん
で、院の情実も知り抜いている。若き陛下のお心にかなうことにも抜け目はない。 大炊おおい
御門みかど に住み、やがて右大臣になったのも二、三年のうちだった。例の口の悪い藤原伊通ふじわらこれみち
はこの時にも、こう冗談を飛ばして、人びとを笑わせたという。 「むかし黍きび
(吉備) 大臣があったから、今、粟あわ
大臣があっても、なんらふしぎはない。今に必ず、稗ひえ
大臣も出て来るであろうよ」 |