〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-T 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (二) ──
ほ う げ ん の 巻
2013/03/20 (水)
文
(
もん
)
覚
(
がく
)
往
(
おう
)
来
(
らい
)
(一)
たれともなく、その後、戦死者のあった橋のたもとや路傍などへ、花を供えたり、香を上げたり、石などを積んで、きのうの無数な無縁仏に、
回向
(
えこう
)
してやる者が、ふえていた。
それは、この
戦
(
いくさ
)
とは、まったく無縁な、庶民たちであった。
赤児を負ったお婆さん、市場から帰り
途
(
みち
)
のおかみさん。戦後、さっそく出て来た
土器
(
かわらけ
)
売
(
う
)
りや、
莚売
(
むしろう
)
りの女、時には、牛を引く男も、道行く尼も、足を止めて、念仏している景色が見られる。
無縁は無縁でも、これら無名戦士の墓に眠る雑兵たちのうちには、自分らの生活に隣しているたれかが彼らの胸にあるのかも知れない。
「いじらしい死者と、いじらしい人びととの
手向
(
たむけ
)
け合いではある。人の善性がここに見られる。・・・・善なるかな、善なるかな」
一つの焼け跡の
角
(
かど
)
に立って、行きずりの足を止め、ここでも見かけた路傍の
香華
(
こうげ
)
に、
憮然
(
ぶぜん
)
と、つぶやいていた大男があった。
年、四十がらみの旅僧で、
笈
(
おい
)
を負い、それに大
笠
(
がさ
)
をかけ、毛むくじゃらな手首に、
念珠
(
ねんず
)
を巻いていた。手には一本の竹づえを持っている。
頭は、伸ばしもせず、
剃
(
そ
)
りもせず、いわゆる
篷頭
(
ほうとう
)
にまかせ、顔は
垢面
(
くめん
)
そのものだ。破衣、
泥草鞋
(
どろわらじ
)
、ただ、
面
(
つら
)
だましいのみは、南都、
叡山
(
えいざん
)
のうちにも、ちょっとこれほどな、豪傑
面
(
づら
)
は見あたるまい。
「ああ、
西洞院
(
にしのとういん
)
の
西角
(
にしかど
)
も焼けている。三条東の亭も、
壬生
(
みぶ
)
も焼け野原だ。あわれ、柳ノ水の御所も・・・・」
彼は、何か感慨に打たれるたびに、念仏を唱えた。口のうちの念仏だけではなく、
「なむあみだ仏っ。なむあみだ仏! ・・・・」
と、ほがらに高唱し、
颯爽
(
さっそう
)
と、街を
称名
(
しょうみょう
)
の声で、洗って行くのであった。
「あら、また行ったよ。大きな声の坊さんが」
「きのうの、イガ
栗
(
ぐり
)
あたまだ」
「大きな栗よ、
鬼栗
(
おにぐり
)
よ」
「坊さん、坊さん、どこ行くの」
街の子どもらは、もう彼を見覚えていた。彼は、子どもずきとみえ、不精ヒゲの中から、にゅっと、紅い口を開いて見せた。
「イガ栗さん。菓子をおくれ」
「
餅
(
もち
)
をおくれよ」
「
銭
(
ぜに
)
でもいいよ」
与
(
くみ
)
しやすしと子どもらは見て、彼の後を、からかい半分、追いかけて来る。
「きょうはない。こんど、こんど」
彼は、手を振って、
大股
(
おおまた
)
に
辻
(
つじ
)
を曲がった。
程なく、姉小路の一つの門、そこは少納言信西の館であった。── 立ち止まって、往来から家へ向かい、数珠を
揉
(
も
)
んで何事かを念じた後、ずかずかと平門を通り、
車宿
(
くるまやどり
)
をわきに見、中門の内に突っ立って、式台へ、どなった。
「頼もうっ、頼もうっ・・・・
召次
(
めしつぎ
)
のお人やある。これは、
洛北
(
らくほく
)
、
栂
(
とが
)
ノ
尾
(
お
)
の山に住む、
露衣
(
ろい
)
風心
(
ふうしん
)
の一
沙門
(
しゃもん
)
、
文覚
(
もんがく
)
でおざる。・・・・昨、また一昨、二度まで、足を運んでおる者。── 今日こそは、信西入道どのに、ぜひ会い申したい。会うて、とくと懇談な致したい。よろしく
侍者
(
じしゃ
)
よりお取次ぎあれよ」
広い
館
(
やかた
)
でも、これ程な声だと、少なくとも
対
(
たい
)
ノ
屋
(
や
)
の端まで、聞こえたに違いない。
中では、召使たちの
恐慌
(
きょうこう
)
ぶりがうかがわれた。奥へ駈けたり、反対に、家従部屋から人の出て来る気配がする 。
青侍
(
あおざむらい
)
三人に、家従の老職が、やがて式台へ現れた。対応は丁寧である。しかし、こうことわった。
「あいにくと、主人は、昨夜も朝議におそくなり、内裏にお泊りのまま、なお、御退出もいつやら知れませぬ。何しろ、このところ、お体が幾つあっても足りないほどな公務のお忙しさで」
「はて。──
途
(
みち
)
すがら
兵衛
(
ひょうえ
)
の門に立ち寄り、文覚が調べて来たところでは、信西どのには、昨夕、
酉
(
とり
)
ノ刻に、皇嘉門より退出と、衛府の
簿
(
ぼ
)
に記してあった。御不在のわけはない。── 何をさは文覚を避け給うぞ。世を治め、人を安んぜんがたもの、お忙しさではないか、文覚とて、閑談をしに来たのではない。憂いをともに憂い、いささか献言の思いがあって、お取次ぎを仰いでおるのだ」
「は、は。いずれ他日、主人にもよく申し上げておきまする」
「他日じゃない。今、会い申したい。見えすいたウソを構えず、さっさと、奥へ仰せ
次
(
つ
)
がれい」
「でも、
今日
(
こんにち
)
のところは」
「いや今日に限る。明日とはいわさぬ。一日措けば、一日幾多の人命を失う。治平の大事、急を要するのだ。取次がねば、ここから怒鳴ろうか」
文覚は、てこでも動く気色ではない。
笈
(
おい
)
を下ろして、腰をすえこんだ。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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