〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/11 (月) ろく かい (二)

ここ数年間に ──
忠盛、清盛父子を始め、六条為義の配下などが、功をたてた事件といえば、そのことごとくが、僧団との、対抗であったといえる。
それの守備、鎮圧を勤めて、まず、禁門にことなきを得たという消極的な功労だけが、武者の功といえば、功であった。
いかに、何千という僧兵が、驟雨しゅうう のごとく、大挙して来ても、それに向かって、武人は戦うことは出来ない。飽くまで、守備だけが任である。なぜならば、叡山も南都の大衆も、法令以上な法権を持ち、朝威以上な、天皇上皇の信仰を、神輿みこしさかき に象徴させて、常に、無敵を誇りながら、示威の陣頭に、押し掲げて来るからであった。

「ほうき星が、毎晩、見える・・・」
いぬい の空に、あれ、あんな大きな彗星ほうきぼし が ──」
と、街中の不安そうな顔が、果てなく、空の一方を、仰ぎあった。
ひでり つづきの、七月の夜ごとに ── である。
「なにかある。どうせ、 いことではあるまいぞ」
ちょうど、興福寺の僧徒が、大和の金峰山と、もつれをお越し、一たん敗れた興福寺方が、さらに大兵を起こして、山を焼き打ちしてという噂の伝わっていた時だった。
奈良から、朝夕に、早馬が入洛したり、六条為義の兵が、万一のため、宇治方面へ出て行くのを見たりしたので、夜々の彗星は、なおさら、あや しい予告に見えた。
街の不安もだが、彗星のへん となれば、百官の朝議も、まことに、ゆゆしげである。何の前兆か、吉か凶かを、暦学、占筮せんぜん の諸博士から、意見を徴して、例のごとく、加持かじ 祈祷きとう に、奔命するのであった。
果たして ── と、堂上で言い合った。
八月二十五日、待賢門院璋子は、仁和寺の内で、四十五歳で、崩御された。

翌年。── こんどは、園城寺おんじょうじ の僧徒と、延暦寺の僧徒が、月余にわたって戦った。
清水寺に、原因不明の、あや があったりした。
この年、平太清盛は、ふたたび昇って、安芸守あきのかみ に任官した。父忠盛は、前から播磨守はりまのかみ だが、いまは、父子そろっいぇの、守である。
位階は四位、職級は、四等官で、国司の下になるが、一国の知事であり、もちろん、任地には かず、京にあって、俸禄ほうろく だけを受けるのである。
こうして、時勢が、かれら武人に びて来るのと同時に、彼ら地下人ちげびと も、ようやく、人交ひとまじ わりの中に、本来の性能と欲望を自覚していた ── ひそかに、時こそ、待つものがあった。
清盛にとっても、その試練しれん といえるような大きな機会をもった日が、ついに来た。
久安三年、ちょうど、彼が三十歳の夏である。
朝廷も、藤原氏も、手を焼きぬいたし、かっては、白河法皇にすら、ままならぬものという長嘆をさせた叡山の大衆に向かって、一個の清盛が、それまで、誰もなし得なかった僧団の暴力に対し、破天荒な一事件を起こしたのであった。
それはまた、当時の、朝廷貴族から、庶民にまで、頑迷がんめい に根を張っていた迷信への一 でもあったため、当時にあっては、
「あはれ、平太清盛は、安芸守に昇進して、思い上がりやしつらん。狂気のわざ よ。狂人でものうて、なしうることか」
と、疑われるほどであった。
じつは、それが反対に、世人の方の迷妄であったとしても、世人の常識限界から先へ、思い切った歩き方をして行く者は、いつもやいがいが清盛と同じような嘲笑ちょうしょう をうける。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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