ここ数年間に
── 忠盛、清盛父子を始め、六条為義の配下などが、功をたてた事件といえば、そのことごとくが、僧団との、対抗であったといえる。 それの守備、鎮圧を勤めて、まず、禁門にことなきを得たという消極的な功労だけが、武者の功といえば、功であった。 いかに、何千という僧兵が、驟雨
のごとく、大挙して来ても、それに向かって、武人は戦うことは出来ない。飽くまで、守備だけが任である。なぜならば、叡山も南都の大衆も、法令以上な法権を持ち、朝威以上な、天皇上皇の信仰を、神輿みこし
や榊さかき
に象徴させて、常に、無敵を誇りながら、示威の陣頭に、押し掲げて来るからであった。
「ほうき星が、毎晩、見える・・・」 「乾いぬい
の空に、あれ、あんな大きな彗星ほうきぼし
が
──」 と、街中の不安そうな顔が、果てなく、空の一方を、仰ぎあった。 旱ひでり
つづきの、七月の夜ごとに ── である。 「なにかある。どうせ、吉い
いことではあるまいぞ」 ちょうど、興福寺の僧徒が、大和の金峰山と、もつれをお越し、一たん敗れた興福寺方が、さらに大兵を起こして、山を焼き打ちしてという噂の伝わっていた時だった。 奈良から、朝夕に、早馬が入洛したり、六条為義の兵が、万一のため、宇治方面へ出て行くのを見たりしたので、夜々の彗星は、なおさら、妖あや
しい予告に見えた。 街の不安もだが、彗星の変へん
となれば、百官の朝議も、まことに、ゆゆしげである。何の前兆か、吉か凶かを、暦学、占筮せんぜん
の諸博士から、意見を徴して、例のごとく、加持かじ
祈祷きとう
に、奔命するのであった。 果たして
── と、堂上で言い合った。 八月二十五日、待賢門院璋子は、仁和寺の内で、四十五歳で、崩御された。
翌年。── こんどは、園城寺おんじょうじ
の僧徒と、延暦寺の僧徒が、月余にわたって戦った。 清水寺に、原因不明の、怪あや
し火び
があったりした。 この年、平太清盛は、ふたたび昇って、安芸守あきのかみ
に任官した。父忠盛は、前から播磨守はりまのかみ
だが、いまは、父子そろっいぇの、守である。 位階は四位、職級は、四等官で、国司の下になるが、一国の知事であり、もちろん、任地には赴ゆ
かず、京にあって、俸禄ほうろく
だけを受けるのである。 こうして、時勢が、かれら武人に媚こ
びて来るのと同時に、彼ら地下人ちげびと
も、ようやく、人交ひとまじ
わりの中に、本来の性能と欲望を自覚していた
── ひそかに、時こそ、待つものがあった。 清盛にとっても、その試練しれん
といえるような大きな機会をもった日が、ついに来た。 久安三年、ちょうど、彼が三十歳の夏である。 朝廷も、藤原氏も、手を焼きぬいたし、かっては、白河法皇にすら、ままならぬものという長嘆をさせた叡山の大衆に向かって、一個の清盛が、それまで、誰もなし得なかった僧団の暴力に対し、破天荒な一事件を起こしたのであった。 それはまた、当時の、朝廷貴族から、庶民にまで、頑迷がんめい
に根を張っていた迷信への一矢し
でもあったため、当時にあっては、 「あはれ、平太清盛は、安芸守に昇進して、思い上がりやしつらん。狂気の業わざ
よ。狂人でものうて、なしうることか」 と、疑われるほどであった。 じつは、それが反対に、世人の方の迷妄であったとしても、世人の常識限界から先へ、思い切った歩き方をして行く者は、いつもやいがいが清盛と同じような嘲笑ちょうしょう
をうける。 |