〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-\ 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (一) ──
ち げ ぐ さ の 巻

2013/02/09 (土) 女 院 と 西 行 (二)

改元、また改元となって、康治元年。── その三月も、半ばを過ぎたころの、ある夕べ。
夕明りの映す、東山の枯れ木林の中を、かさこそと、一人の若い僧が、雪おれ枝を、拾って歩いていた。
さきの左兵衛尉佐藤義清。── 今は、法衣ころも 一つの、西行であった。
いわゆる、 “祗園精舎ぎおんそうじゃ の鐘の声” とは、この辺の峰、山ふところなどの、朱門楼閣しゅもんろうかく や堂塔の繁昌を思わせるものだが、若いこの一僧の姿には、みじんの装飾もない、仏臭ほとけくさ さもない。
沙羅双樹さらそうじゅ の花ならぬ、枯れ木を拾っては、手に抱えた。
「・・・・おうっ。ここにおいでなされましたか」
人の声に、西行は、振り向いた。
「や。源五兵衛か」
「草庵の内にもお見え遊ばさず、双りん林寺の者も知らぬと言うし、さては、洛内へ、お出ましか、などと思いながら、あちこち、お探しいたしました。・・・・こんなところで、何をしておられますので」
「いや、薪拾いに出たのだが」 と、西行は、明るく笑って ──
「手に拾う薪よりは、静かな谷の、気ままと、おもしろさに、うかうか、日が暮れてしもうたのだよ」 と、言った。
「薪を? ・・・・。やれ、薪などを」
朗従の源五兵衛には、ゆい、きのうまでの主人義清が、考え出されてならないのである。走り寄って、それを、すぐ自分の手に、抱え取って、言った。
「もう、お帰りでございましょうが」
「何か、急な用向きでも、できたのか」
「いえいえ、お姫さまにも、お内方うちかた も、みな様お変わりはございませぬ。そして、あとのお屋敷の始末、下婢しもめ たちから、うまや の馬まで、それぞれ、よいように、片づけ終わりました。荘園しょうえん地券ちけん の御返上も、とどこおりなく」
「すまないのう。・・・・ただただ、すまないと、 びておる」
御縁者方ごえんじゃがた にも、もう、うごく御決意ではないと分かり、ふっつり、おあきらめに、見うけられまする。・・・・で、近いうちに、奥がた様も、お子を連れて、お里方さとがた へ移られましょう」
「そうか・あれたちも、やっと心を、きめてくれたか。やれやれ、うれしいことだ」
西行は、たった一つの気がかりだった妻子のことが、一応は安心されたように、まゆ をひらいた。そして、やがて、かれの仮のいおり ── 双林寺裏のわびたる小屋のうちへ、ふたりして帰った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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