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── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
巴 御 前
木曾義仲を愛した女武者

2012/11/14 (水) 非業の地で尼になり義仲供養

巴御前は涙をぬぐいつつも主命に従い、後ろの山に忍んで、義仲の最期を見届け、武具を脱ぎ捨てて信濃に下った。戦乱の世が治まってのち、巴御前は頼朝の前に召し出され、身柄は森五郎に預けられた。それを和田義盛よしもり が引き取って妻とし、天下無双の大力とされた朝比奈あさひな 義秀よしひで が生まれたという。その後、和田合戦で義秀が討たれると、巴御前は越中国石黒に移って尼となり、九十一歳の長寿を全うしたと記されている。
巴御前を落ち延びさせたあと、義仲はついに兼平と二人になってしまう。 「鎧が重たく感じられる」 と弱音を吐いた義仲に、兼平は 「自分が防戦しているうちに自害されよ」 と言う。一度は天下に覇を唱えた大将軍の首を敵に取らせるわけにはいかないのだ。義仲は死に場所を探して向かいの岡の上にある松林を目ざしたが、深田に馬の脚を取られたところを、相模国石田為久ためひさ の矢に打ち抜かれて首を取られてしまった。これを見て、兼平は三百騎の敵中に駆け入り、 「日本一の剛の者が主の御伴おとも に自害する。見習えや、東国の武者ども」 と叫んで、太刀に切っ先を口にくわえ、馬からどうと逆さまに落ちて、自害して果てた。義仲三十一歳、兼平三十二歳であった。
木曾義仲の墓は大津市・義仲寺ぎちゅうじ にある。寺は旧東海道に沿っていて、今は市街地になっているが、あたりはかって粟津ヶ原と呼ばれ、琵琶湖岸の景勝地であった。伝承によれば、義仲没後、相当の年月を経た頃、美しい尼僧が義仲の墓所のかたわらに草庵を結んで供養を怠らなかった。里人が尋ねても 「我は名も無き女性にょしょう 」 と答えるばかりだった。この尼が巴御前その人であったという。尼の没後、草庵は 「無名庵」 と呼ばれ、また巴寺などとも呼ばれた。いつしか義仲の墓のそばに巴塚なるものもつくられた。
著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ