捕えられた静御前が義経の子を宿していることが分かって、詮議
のために鎌倉へ送られることになった。文治ぶんじ
二年 (1186) 三月一日のことで、母の磯禅師いそのぜんじ
も一緒だった。 頼朝は吉野から行方をくらませた義経の探索に必死であった。その追討を口実に、全国にわたる守護しゅご
・span>地頭じとう の設置を朝廷に認めさせている。静御前は大物浦以来の行動を包み隠さず話したが、それで義経の探索が進むわけでもなかった。そんなことよりも、頼朝が執着したのは静御前の腹の中に入る子であり、都で
「日本一」 よ評判の高かった静御前の舞だった。 四月八日、嫌がる静御前をあの手この手で威おど
したり透す かしたりした挙句、最後は
「八幡はちまん の御託宣ごたくせん
だから」 と母の禅師に迫って、鶴岡八幡宮つるおかはちまんぐうで静御前の舞が披露された。その素晴らしさに、頼朝・政子は言うに及ばず、参列した人々の感嘆の声は雲にも響くばかりであったという。これで最後というところで、静御前は敵の目の前で自らの気持を存分に歌った。 |