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── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
静 御 前
九郎判官義経を慕う白拍子

2012/11/26 (月) 義経しのぶ静の舞に政子も感嘆

捕えられた静御前が義経の子を宿していることが分かって、詮議せんぎ のために鎌倉へ送られることになった。文治ぶんじ 二年 (1186) 三月一日のことで、母の磯禅師いそのぜんじ も一緒だった。
頼朝は吉野から行方をくらませた義経の探索に必死であった。その追討を口実に、全国にわたる守護しゅご ・span>地頭じとう の設置を朝廷に認めさせている。静御前は大物浦以来の行動を包み隠さず話したが、それで義経の探索が進むわけでもなかった。そんなことよりも、頼朝が執着したのは静御前の腹の中に入る子であり、都で 「日本一」 よ評判の高かった静御前の舞だった。
四月八日、嫌がる静御前をあの手この手でおど したり かしたりした挙句、最後は 「八幡はちまん御託宣ごたくせん だから」 と母の禅師に迫って、鶴岡八幡宮つるおかはちまんぐうで静御前の舞が披露された。その素晴らしさに、頼朝・政子は言うに及ばず、参列した人々の感嘆の声は雲にも響くばかりであったという。これで最後というところで、静御前は敵の目の前で自らの気持を存分に歌った。

吉野山みね の白雪踏み分けて
  入りにし人の跡ぞ恋しき
しづやしづしづ のをだまき繰り返し
  昔を今になすよしもがも
先の歌は、雪の吉野山で別れた義経を慕った歌である。後の歌に詠まれた 「しづ」 は古代織物の一つで、その 「しづ布」 を織る糸を巻いたものが 「をだまき」 である。 「しづ」 の音に 「静」 の名を読み込んでいる。しづのをだまきを何度も繰り返して布を織るように、昔の栄華をどうやって今に取り戻すことができようか、という歌である。これを聞いて、頼朝は 「今の舞い様、歌い様、けしからぬ」 と怒りをあらわにした。それに対して、静御前に深く同情した政子は、 「私も静と同じよな経験をしました。苦境に陥ったからといって思う人への恋慕を忘れるようでは、貞女とは申せません」 と自らの頼朝への思いを語って、頼朝をいさめた。頼朝はこの政子のとりなしによって怒りをおさめ、静御前に褒美ほうび を与えたという。
その年のうるう 七月二十九日に静御前は男子を出産した。頼朝は義経の血を引く男子ならば生かすわけにはいかぬと、政子の懇願にもかかわらず、安達あだち 新三郎に命じて由比ゆい ヶ浜で赤子を殺害した。愁嘆しゅうたん に暮れる静御前は九月十六日に母と共に鎌倉を後にしたが、京都に戻ると髪を切って嵯峨野に草庵を結び、翌年、往生を遂げたという。二十歳の若さであった。
静御前が京都に戻って来たころ、義経一行は山伏に身をやつして北陸路を奥州に向かっていた。途中、羽前うぜん 国の亀割かめわり 山で都より同道していた義経の北の方が亀鶴かめつる 御前 (男子) を出産している。北の方の妊娠は静御前が鎌倉に呼び出されたころと考えられるから、静御前が思うほどに義経は静御前を思っていなかったようだ。
ようやく義経一行が奥州平泉ひらいずみ に入ったのは、文治ぶんじ 三年 (1187) 春のことである。しかし、義経が父とも頼った藤原秀衡ひでひら が没すると、その子泰衡やすひら の裏切りによって、文治五年 (1189) 四月三十日、奥州衣川ころもがわ高館たかだち を急襲された。もはやこれまでと悟った義経は、武蔵坊弁慶むさしぼうべんけい仁王立におうだ ちして敵の襲撃を防ぐ間に妻子を刺し殺し、自害して果てた。このとき三十一歳であった。
著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ