〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part T-[』 〜 〜
── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
静 御 前
九郎判官義経を慕う白拍子
2012/11/23 (金) 奇襲、夜襲・・・・義経行くところ敵なし
治承
(
じしょう
)
四年
(1180)
、各地で反平家の反乱が
勃発
(
ぼっぱつ
)
した。
四月九日には
以仁
(
もちひと
)
王が平家追討の
令旨
(
りょうじ
)
を発し、これを源
頼政
(
よりまさ
)
が源
行家
(
ゆきいえ
)
(義盛あらため)
に命じて諸国の源氏に伝えさせ、その挙兵をうながした。五月二十六日、以仁王と頼政の反乱軍は宇治川の合戦で平家軍に敗れる。しかし、事はそれで終わらなかった。頼政の挙兵を追うようにして、各地の源氏がいっせいに反平家の兵を挙げたのである。
八月には源頼朝が伊豆で、九月には源義仲が木曾で挙兵する。十月二十日には、平
維盛
(
これもり
)
率いる頼朝追討軍が、頼朝軍と
対峙
(
たいじ
)
した富士川の戦で、水鳥の羽音に慌てふためいて
遁走
(
とんそう
)
している。その翌日の事だった。勝戦に沸く頼朝の陣営に、
奥州平泉
(
おうしゅうひらいずみ
)
から数十騎の武者を率いた義経が 「兄上が平家に反旗を翻したと聞きまして、夜を日に継いで馳せ参じました」 と会見を求めて来たのである。日ごろ冷静沈着な頼朝も、これには感激した。涙の対面を果たした兄弟は父義朝が討たれて以来の経歴を語り合い、義経は 「我が命は亡き父上に、我が身は兄上に差し上げます」 と誓った。
黄瀬川
(
きせがわ
)
の陣で頼朝と感動的な対面をした義経が次に
颯爽
(
さっそう
)
と現れるのは、やはり合戦の場である。
寿永
(
じゅえい
)
二年
(1183)
七月には平家を西海に
放逐
(
ほうちく
)
して、義仲が都に
覇
(
は
)
を唱えていたのに対し、翌年一月二十日、義経は宇治川に義仲軍を破り、一気に北上して、六条河原の合戦で義仲を近江
粟津
(
あわづ
)
に敗走せしめる。次いで義経の攻撃は屋島を拠点にして勢力を盛り返していた平家に向かう。二月六日には三草山で平
資盛
(
すけもり
)
軍を夜襲して蹴散らし、翌日には 「
鵯越
(
ひよどりごえ
)
の坂落とし」 という奇襲戦法で一の谷の平家を打ち破った。
翌年二月には強風を衝いて
阿波
(
あわ
)
に渡って
讃岐
(
さぬき
)
屋島を急襲、三月二十四日には壇ノ浦の海戦によって平家を滅亡させている。
義経の行くところ敵なしで、少数精鋭部隊による奇襲・夜襲を得意とする天才的な軍事指導者といえよう。その指揮下で活躍したのは僧兵・山賊・商人・奥州武士などで、土地と堅く結びついて一族郎党が結束する東国武士とは相当に異質な者たちである。
確かに義経は軍事の天才ではあったが、陰謀うずまく政治の世界では無能であった。直情径行で、自らの信念を曲げず、その成功を誇る。当然、頼朝が目付け役として派遣していた
梶原景時
(
かじわらのかげとき
)
とは事毎に反目する。京都の
老獪
(
ろうかい
)
な権力者たちの策謀に警戒心もなく乗ってしまう。何よりも、頼朝が目ざした政治のあり方を理解できなかった。
義経と頼朝の不和は、一の谷の恩賞をめぐって
露呈
(
ろてい
)
してくる。頼朝は義経を
検非違使
(
けびいし
)
・
左衛門少尉
(
さえもんのしょうじょう
)
に
抜擢
(
ばってき
)
し、従五位下に
叙
(
じょ
)
している。義経は京都の警察権と司法権を
司
(
つかさど
)
ることになったのだから、
有頂天
(
うちょうてん
)
だったに違いない。以来、義経は 「
判官
(
ほうがん
)
」 を冠して呼ばれることになる。しかし、こらが頼朝を怒らせた。武家の
棟梁
(
とうりょう
)
たる頼朝の申請も許可もなくして、直接、後白河院から恩賞を受けるとは何事か。弟とはいえ、これでは他の者に示しがつかない。頼朝は
律令
(
りつりょう
)
政治の枠組みを脱して、武家階級による新しい政治の秩序を求めていた。それを義経は全く理解できなかったのである。
頼朝は義経から平家追討の指揮権を奪い、
範頼
(
のりより
)
を平家追討に当らせたが、とても義経のような目ざましい働きは出来ない。そればかりか、屋島を拠点にして再び平家が勢力を取り戻しつつあった。頼朝は武蔵の豪族
河越重頼
(
かわごえしげより
)
の娘を義経の妻として京都に送って、軍事的天才の離反を留めなければならなかった。そのうえで、義経に平家追討を命じている。その結果は、屋島、壇ノ浦の大勝利である。義経は都人に歓呼で迎えられた。時代のヒーローとなったのである。
著:高城 修三 発行所:京都新聞出版センター ヨリ
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