後白河院の大原御幸を伝えるのは、
『平家物語』 の最後に置かれた 「灌頂巻
」 である。建礼門院の崩年には異説があるし、大原御幸も確かな証拠があるわけではない。しかし、 「灌頂巻かんじょうのまき
」 であるからには、何としても後白河院の御幸がなければならず、建礼門院は大原の寂光院で二月中旬
(釈迦入滅にゅうめつ
のころ) に崩じられなければならなかったのである。 建礼門院の旧跡寂光院のある大原は、出家遁世とんせい
者が憧憬しょうけい
した地であり、戦後の高度成長と共に始まった京都ブームで若い情勢が押しかけて以来、京都屈指の観光地となっている。急速に変貌へんぼう
していった戦後の日本の中にあって、大原の山里は日本人の懐かしい原風景であり続けたからである。言ってみれば、現代の浄土じょうど
である。
『平家物語』 の時代でも、大原は比叡山下にあって、慈円じえん
も座主ざす
をつとめた延暦寺の有力な門跡寺院もんせきじいん
三千院の地であり、ここに久安きゅうあん
四年 (1148)
阿弥陀如来像あみだにょらいぞう
をおさめた往生極楽院おうじょうごくらくいん
が建立されたのも、大原を浄土と見る考えがあってのことだろう。 「灌頂巻」 が展開されるに当って、大原ほど最適な地はなかったに違いない。 灌頂は、もともと菩薩の頭に聖水をそそいで最高位の如来に加えようとする儀式、つまり仏に成る儀式であった。真言しんごん
の秘奥ひおう
を受ける儀式でもある。また平曲へいきょく
の秘伝、最上のものも意味した。 「灌頂巻」
は 『平家物語』 がおおよその形をととのえてから、なお百年を要して、平曲を語る琵琶法師たちの間に最高の秘伝として付け加えられたものである。そこに、なぜ、後白河院の大原御幸がなければならなかったのか。その後の後白河院を前にして、なぜ、建礼門院は
「六道の沙汰さた
」 を語らねばならなかったのか。 源平合戦の始まりを告げる保元ほうげん
の乱 (1156) は、後白河天皇と崇徳すとく
上皇の争いに端を発している。その二年後、後白河天皇は二条天皇に譲位して院政を敷く。その翌年に勃発した平治へいじ
の乱
(1159) は後白河院の側近の権力争いが原因で、そこに源平両氏が巻き込まれたものである。以来、後白河院は建久けんきゅう
三年
(1192) に崩御ほうぎょ
するまで、平氏と源氏、義仲と頼朝、頼朝と義経など、敵対勢力を巧みに利用して隠然たる権力を保持し続けた。それでいて政治にはさして興味を持たなかったようで、十余歳のころから今様いまよう
に飽くことなき執心を見せて、春夏秋冬、昼夜となく歌い暮して一時も精進練磨しょうじんれんま
を怠る事がなかったという今様狂いまようぐるい
であったし、また在位中に三十四回も大行列を連ねて熊野詣をするというありさまであった。 後白河院は保元の乱に始まる源平合戦の仕掛け人であり、頼朝をして
「大天狗てんぐ
」 と言わしめた陰謀の人であった。その無残な結末を目の当たりにした建礼門院は、だから他でもない後白河院に 「六道の沙汰」 として自らの悲惨な体験を語り聞かせなければならなかったのである。そうすることによって、
『平家物語』 は六道の世界に呻吟しんぎん
する平家の亡魂をなぐさめ、その輪廻りんね
からの解脱げだつ
を図ろうとしたのである。 |