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── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
小 宰 相
一途な恋に殉じた気高き美女

2012/11/19 (月) 月の海に消えた一途な恋

通盛は清盛の弟教盛の長男で、弟に平家随一の武将として勇猛をうたわれた教経がいる。通盛もまた武勇の人で、治承五年 (1181) 三月、平重衡・維盛らと共に大将軍として三万余騎を率い、尾張の墨股川で源行家の軍勢六千余騎を破っている。寿永二年 (1183) 四月、木曾義仲追討軍が北陸に遣わされたおりは、平維盛らと大将軍六人の一人として戦ったが倶梨伽羅峠で大敗、通盛は加賀に退いて奮戦するもかなわず、敗残の将として帰京した。その先には平家一門の都落ちが待っていた。通盛も小宰相を伴って西国に下っていった。
讃岐の屋島を拠点にして瀬戸内海の制海権を掌握した平家は、次第に勢いを取り戻していく。教盛父子の奮戦もあって、山陽道八ヶ国、南街道六ヶ国を討ち従え、十万余騎をそろえて再び福原の旧都びもどえい、強固な陣を敷いて京都をうかがうまでになっていた。西は一の谷、東は生田の森を城戸口と定めて、その間を平家の赤旗が埋めた。南の沖合いにも赤旗をなびかせた軍船が並んでいた。北は険しい山並みがさえぎっている。まさに鉄壁の布陣であった。
しかし、平和交渉をもちかけるという後白河院の策略で平家が武装を解いたところへ、義経の 「鵯越の坂落し」 という奇襲攻撃で、平家は浮き足立ち、総崩れになってしまった。鵯越の山すそを守っていた通盛と教経は戦いの中で離れ離れになってしまった。通盛が死に場所を探して東に落ちていき、湊川まで来たとき、近江国の佐々木成綱、武蔵国の玉井資景ら七騎に取り囲まれ、あえなく討たれてしまった。一の谷の西手の大将軍であった平忠度、平経盛の子敦盛も討死している。
舟の上で夫の無事を祈っていた小宰相のもとに通盛戦死の悲報が届いた。それを聞いた小宰相は泣き伏すばかりだった。合戦の二日前、仮小屋で通盛と最後の名残を惜しんだとき、小宰相は初めて夫に妊娠していることを告げたのだった。一人で耐え忍ぶ気の強い女だと思われたくなくて口にしたのだが、通盛は 「三十になるまで子がなかったのに、これはまあ、どうしたことか。浮世の忘れ形見にもしよう」 と、この上なく喜んで小宰相の身を案じてくれたのだった。
あの御方が討死された。どうしても本当のこととは思われなかった。
それから六日間、小宰相は起き上がることも出来ずに乳母と泣き暮らしていたが、明ければ屋島に着くという夜更け、 「生まれてくる子を亡き夫の形見として育てても、その子を見るたびに思いは募るばかり。それよりも、いっそのこと水の底に入ってしまいたい」 などと心の内を訴えれば、乳母はさめざめと涙を流しながら 「どうしても身を投げられるなら、一緒に連れて行ってください」 と言う。思いを打ち明けた事を後悔した小宰相は、乳母がまどろんだすきに念仏を百ぺんばかり唱え、 「必ず一つの蓮に導きたまえ」 と阿弥陀如来に念じつつ、身重の体を朧な月の海に沈めた。
神戸市の湊川公園近くにある願成寺には通盛と小宰相の墓と称する供養塔がある。付近には旧都福原や源平合戦にまつわる遺跡が多い。なお、鳴戸市大毛島の南端、小鳴戸海峡を望む丘の上にも小宰相の供養塔が立っている。

著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ