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── 女 た ち の 源 平 恋 絵 巻 ──
祗 園 女 御
清盛落胤伝説を生んだ白河院の寵妃

2012/11/05 (月) 平家台頭をうながした祇園女御

京都御苑ぎょえん 南端にある池庭の中に破風はふ 型の珍しい鳥居で知られる厳島いつくしま 神社がある。社伝によれば、清盛が祇園女御のために安芸の厳島神社より勧請かんじょう したものという。ここにも養母を実母にしてしまった伝説の小さな錯誤がある。
祇園女御は祇園に住んでいたことから祇園女御と呼ばれ、また白河殿とも称された。女御の宣旨せんじ こそ下されていないが、晩年の白河院の寵愛はことのほか深く、 『今鏡いまかがみ 』 は 「三千の寵愛ひとりのみなり」 とまで記している。この祇園女御に仕えていたことから、忠盛の父正盛まさもり は諸国の受領ずりょう を歴任し、寺社の造営で白河院の感心を買って、平家台頭の基礎をつくることが出来たのである。天永てんえい 四年 (1113) には、清盛の祖父正盛が建立した六波羅蜜ろくはらみつ 堂で祇園女御が一切経いっさいきょう 供養くよう を行っているほどである。六波羅には正盛の墓もつくられて、平家の根拠地となっていく。正盛の跡を継いだ忠盛も白河院と祇園女御に仕えて出世の糸口をつかみ、白河院に続く鳥羽院の時代に西国の受領を歴任したばかりか日宋につそう 貿易にも力を注いで富を蓄えた。祇園女御との深い縁なくして、のちの平家の繁栄もなかったといえよう。
祇園女御が住んでいたとされるあたりに祇園女御塚がある。ここは 『山城名跡巡行志やましろめいせきじゅんこうし』 にも 「地を動かす者必ず祟りあり」 と記されていて、古くから祟りの土地とされていたために、道に面した小さな空き地が近年まで残され、供養塔もあったのだが、最近ではそれも開発で消えようとしている。白河院が美貌の水汲み女を目にとめたのは、八坂神社の西楼門の下、いわゆる祇園石段下のあたりであろうか。そこから八坂神社の境内に入れば、本殿の近くに小さな林があって、その木陰に古風な石灯籠が立っている。白河院の主従が、この燈籠に火を入れていた老法師を鬼に見誤ったといい、忠盛燈籠と呼ばれている。
祇園女御と共に平家の台頭をうながした白河院は、延久えんきゅう 四年 (1072) に二十歳で白河天皇となられたが、応徳おうとく 三年 (1086) には堀河天皇に譲位して上皇となり、天皇の父として自由に権力を行使できる院政を始めた。その発令は 「院宣いんぜん 」 と言われ、天皇の勅令以上に重んじられた。院政は、天皇の母系に連なる摂関家せっかんけ が権力を握った摂関体制に対抗して、天皇の父方が権力を掌握する政治体制であった。だから、摂関家の経済を支えた荘園の整理もしばしば試みられた。白河院が平家を引き立てたのも、摂関家を抑圧すると共に、摂関家と結びついて台頭していた源氏を牽制けんせい するためでもあった。
権謀術数にたけた白河院は、大治だいじ 四年 (1129)崩御ほうぎょ するまで、五十七年間も 「治天ちてん の君」 として君臨した。
錯簡政治に代わる新しい政治を目ざした院政の時代、院の御所は洛中を離れて洛外につくられた。鴨川の東に白河殿や法住寺ほうじゅうじ 殿が造営され、南の鳥羽とば には、朱雀大路からまっすぐ南につづく 「作り道」 がつくられ、東西1キロ、南北1.2キロにも及ぶ広大な離宮鳥羽殿とばどの が造営された。院には警護のために北面ほくめん の武士が置かれた。また京都に常駐して諸家の警備を勤める武士も少なくなかった。そうした中から源・平の武士団が中央政界に台頭し、保元ほうげん の乱や平治へいじ の乱を通じて源平争乱を巻き起こすことになるのである

著:高城 修三  発行所:京都新聞出版センター ヨリ