廣瀬武夫は明治改元三ヶ月余り前の慶応四年
(1868) 五月二十七日、岡藩士廣瀬重武
の次男として、豊後国ぶんごのくに
直入なおいり 郡竹田たけた
町茶屋ノ辻に生まれた。現在の大分県竹田市に生まれたのであるが、岡藩が岡県になったのは彼の誕生の三年位ヵ月後の明治四年 (1871)
七月十四日のことであり、さらに大分県になったのは明治四年十一月十四日のことである。要するに廣瀬武夫は大分県人として生まれたのではなく、岡藩七万石の藩士の家に生まれたのである。 岡藩の藩祖は明智あけち
光秀みつひで との山崎の戦いで羽柴はしば
秀吉ひでよし の陣営に馳せ参じ、後には柴田しばた
勝家かついえ との賤ヶ岳しずがたけ
の戦いで家臣もろとも壮絶な玉砕をして秀吉の天下取りに決定的な役割を果たした中川清秀きよひで
、通称中川瀬兵衛せえべえ の次男・中川秀成ひでしげ
である。 廣瀬武夫が生まれた頃の藩主は、第十二代中川久昭ひさあき
であった。 徳川時代小藩分立だった大分県域は、実質一藩一県だった鹿児島人や熊本人には想像も出来ないようなハンディキャップがあった。 大分県域諸藩は小さく貧しかった。しかし選択と集中で、
「教育」 を重んじて多くの人材を生み出した。 『江戸時代の洋学者たち』 という本がある。緒方おがた
洪庵こうあん の曾孫の緒方富雄・東大名誉教授が編集した本で、帯に司馬遼太郎が推薦文を寄せている。この本には六十四人の日本人とシーボルト等三人の外国人が取り上げられている。現在の大分県の人口は、日本の一パーセント弱である。その比率からすると、一人取り上げられたら御おん
の字じ なのである。それが六人取り上げられているのである。その六人とは三浦みうら
梅園ばいえん (杵築きつき
藩) ・ 前野まえの
良沢りょうたく (中津藩)
・ 麻田あさだ 剛立ごうりゅう
(杵築藩) ・ 大蔵おおくら
永常ながつね (天領日田ひだ
) ・ 帆足ほあし
万里ばんり (日出ひじ
藩) ・福沢ふくざわ
諭吉ゆきち
(中津藩) である。麻田 剛立の如きは、コペルニクスやアインシュタインと共に月のクレーターに 「クレーター・アサダ」 と名が付けられるほど世界的に高く評価されている。 人材排出の伝統は明治維新後も続き、例えば総理大臣は村山富市一人だが、日銀総裁二十八人三十代中大分出身者は四人五代を数える。山本達雄
(臼杵うすき 市)
・井上準之助 (日田市) ・ 一万田いちまだ
尚登ひさと (大分市)
・ 三重みえ 野康のやす
(大分市) である。東京都は四人であり、大阪府は福井俊彦前総裁のたった一人である。 廣瀬武夫が生まれ育った竹田市は杵築市・中津市と並ぶ人材輩出地である。我が国南画界の中心的画人の田能村たのむら
竹田ちくでん
(1777〜1825) 、 竹田ちくでん
の直弟子で京都府画学校 (京都市立芸術大学の前身) 初代校長になった田能村 直入ちょくにゅう
(1814〜1907) 、 夭折ようせつ
の天才作曲家・ 瀧たき
廉太郎れんたろう (1879〜1903)
、「東洋のロダン」 といわれた彫刻家の朝倉文夫 (1905〜68) 、「いぬのおまわりさん」 等で有名な童謡・童話作家の佐藤
義美よしみ (1905〜68)
ポッタム宣言受託時の陸軍大臣で戦争から平和への 舵切かじき
りにおいて決定的な役割を果たした 阿南あなみ
惟幾これちか (1887〜1954)
など綺羅星きらぼし の如くである。もちろん廣瀬武夫は綺羅星の中の一等星である。 |