廣瀬はカッターに乗り移った後、福井丸の爆破を命じた。船は沈みかけているが、さらに破壊しておく必要があった。作戦の要諦は旅順港口の閉塞である。ロシアによる引き揚げ作業を困難にするらめに、欠かせない命令だった。 船内捜索で退避の遅れたカッターにはロシアの砲銃撃が集中した。漕ぎ出してまもなく、オール二丁が銃弾に打ち砕かれた。次いで中央部にいた小池三郎・二等機関兵が銃撃されて即死した。カッター内に恐怖心が広がって、オールを漕ぐ手が鈍る。 「みな、よく俺の顔を見て、しっかり漕げ」 立ち上がって士気を鼓舞する廣瀬の頭部を直撃弾が襲った。廣瀬の体は吹き飛び、カッターに残ったのは銅貨大の肉片だけだった。 「水雷長がやられた」 その声に驚いて立ち上がった粟田の右足を銃弾が貫いた。オールを持つ菅波政次・二等信号兵曹は腰と左足に被弾した。 カッターが視線をさ迷ったのは約二時間である。救援の駆逐艦がカッターを発見し、乗組員を収容したのは、夜が白々と明ける午前六時半ごろだったという。 駆逐艦は戦艦・朝日に横付けし、死傷者を担架で移乗した。負傷者は粟田ら五人だったが、まもなく出血の激しかった菅波が落命、十八人が乗り組んだ福井丸の犠牲は、死者三人、行方不明一人、負傷四人を数えた。 作戦に従事した他の三隻では重軽傷者計六人で、死者はいない、福井丸に被害が集中したのは脱出の遅れが一因かもしれない。 にもかかわらず、面白いのはその責任を問う声が出ないだけでなく、廣瀬の勇気と人柄を称賛する声が、それこそ日本中に広がった事である。 朝日の艦長は、直接の部下だった廣瀬の肉片をアルコール漬けにし、遺品とともに丁重に佐世保に送った。佐世保港では鎮守府司令長官をはじめ、幕僚と儀杖兵数百人が出迎えた。東京へ向かう列車は、各駅の通過時間があらかじめ伝えられていて、県庁所在地などでは知事や市長、多くの市民が見送りに立ったという。 葬儀は四月十三日、海軍葬で行われ、天皇から勅使が差し遣わされた。十八日には廣瀬の伝記とも言える
『日露戦争実記 「軍神廣瀬中佐」 臨時増刊第九編』 が東京・博文館から出版されている。戦死から三週間余りしか経っていない時期に、廣瀬の生い立ちから逸話、閉塞作戦の状況まできめ細かく書くことが出来たには、生前の廣瀬がすでに、ある種の有名人だったからである。 戦死から八年後の大正元年には
「廣瀬中佐」 という文部省唱歌までできた。 |