日本で、コワレフスキー少将の名を広めたのは、昭和三十六年に出版された
『ロシアにおける廣瀬武夫』 である。元東大教授で比較文学者の島田謹二が、おそらくは廣瀬の日誌を基に書いた本で、戦後忘れられようとしていた廣瀬を再評価した名著である。その中でアリアズナの父親はコワレフスキー少将であり、彼はロシア海軍水路部長と紹介されているのである。何ゆえにこうした記述が行われたか。商社マンなどとしてロシアとの付き合いが半世紀に及ぶ川村さんは、自身の経験からこう話す。 「ソ連時代も含めて、ロシアが一番戦死者を出したのはドイツとの戦いでした。しかし、彼らはドイツには寛大です。肝心の戦争に勝ったからです。半面、日本には警戒心が強く、北方領土問題でも態度が硬い。日露戦争に負けた歴史がそうさせるのです。そんな彼らには、廣瀬とコワリスキー大佐との関係は、ロシア海軍士官が日本人に懐柔されていたようで非常にまずい情報。だから島田教授の調査に対して偽情報を流した可能性が高いと私は思います」 一連のこの話は非常に興味深い。
『ロシアにおける廣瀬武夫』 がコワフシキー少将の存在を 「事実」 にしてしまうほどの影響力を持っていたこともそうだが、そうした情報を読者や研究者が簡単に信じてしまうほど、廣瀬に関する情報が日本では少なくなっていたことを示すからだ。戦後わずか十六年にして、戦前の軍神は日本人に急速に忘れられていったのである。筆者が敢えて、この章を設けてこの話を掲載したかった理由は、この日本人気質について考えてもらいたかったからである。 最後に、廣瀬のコワレスキー大佐への接近が任務上のものだったとしたら、アリアズナへの恋情が本物だったかどうかを考えたい。この点についてはフルツカヤさんの結論は明白だ。アリアズナが廣瀬とともに、スケート場や庭園を何度も訪れたことのほか、エカテリーナ運河96にあった廣瀬の住居を度々訪問していることを確認できたとし、その居住跡から廣瀬の死後、プーシキンやツルゲーネフ、トルストイ、ゴーゴリーなどの文学作品が多数発見されていることなどから、文学を通しても二人が深い交流を重ねていたと結論づけている。 川村さんも、廣瀬が残しているアリアズナの恋文
(廣瀬が和訳したもの) などから、恋情は本物だったと見る。 「当時のロシアは日本の仮想敵国ですから、結婚は無理だと思いながらも魅かれ続けていたのだと思います。それを外国人だからとか、軍人だからとかいう理窟をつけて無理に抑えようとしていたのだと思います」 軍神・廣瀬が見せる人間像が、アリアズナとの恋を通じて見える。それがまた、無骨な廣瀬の魅力を増しているような気がする。 |