これは
「上村将軍」 と題する歌で、蔚山沖海戦後に作られ、長く愛唱されたという。ただし、この歌を上村は嫌い、周囲にこうもらしていた 「俺が生きているうちは、この歌は決して歌ってくれるなよ」 上村は不思議と廣瀬とも縁があり、そしてさまざまに気を配ってくれた人である。 廣瀬がペテルブルグ駐在中に戦艦・朝日の回航委員長としてやって来たことがあるが、その際には廣瀬が上司の野元綱明とうまが合わないことを知っていて、励ました。 「おはん、ようやっちょつ。辛抱せい。わしゃ、ようわかっちょるきにのう」 その言葉には、心底からの親切心が感じられて、廣瀬の心に残っていた。 上村の人柄を知るもう一つの逸話は、バルチック艦隊との死闘、日本海海戦の際のものである。勝敗がほぼ決定した海戦の終盤、逃走を続けていたロシアの第三艦隊を連合艦隊が包囲した。ニコライ一世を旗艦とするこの艦隊は、
「浮かぶアイロン」 と酷評される旧式艦隊だったため、最新鋭艦から撃破するという連合艦隊の攻撃目標から外れていたのである。が、ロシアの主力部隊が壊滅した後だったから、もはや逃れようがない。司令官のネガトフ少将は降伏を決意し、機関停止を艦隊に命じた。 その際、予想外の事が起こった。ニコライ一世の右舷にいた軽巡洋艦・イズムルードが、包囲のわずかな切れ目を見つけて逃走をはじめたのである。 第二艦隊旗艦・出雲の艦橋でそれを見た上村が叫んだ。 「撃て、あれを撃て」 側にいた参謀の佐藤鉄太郎が、冷静に諫めた。 「長官、あれはネボガトフ提督が、ロシア皇帝に最後の上奏をするために出した使者ではないでしょうか。もはや一隻ぐらい逃がしても構うまいと思います。武士の情けです」 上村はみるみる後悔の表情に変わり、大声で言った。 「気がつかんじゃった。撃っちゃいかん、撃っちゃいかん」 この薩摩人そのもののような上村に、生涯にわたる苦悩を植えつけた日本の国民性とはいかがなものだろうか。この逸話で感じるのは、国民の主意識とでもいうべきものである。 期待通りに働いてくれぬ軍人に対しては容赦なく怒り、家族も巻き込んで叱責する。期待通りの働きを見せれば、掌を返したように賛美する。軽薄この上ない国民性だが、それに対して軍人は、当然のことのように受け入れ、堪忍辛抱するだけである。 こうした国民性に対する義務感のようなものを軍人たちは持っていた。日露戦争当時の日本が
「坂の上の雲を目ざした」 と形容される理由は、この 「主従関係」 のもあるのではないか。この時代の一員が廣瀬であったことも忘れてはならない。 |