ハバロフスクからは再び汽車の旅である。ウスリー鉄道に乗ってオラジオストックへ。ここはロシア太平洋艦隊の第二の拠点でもある。ここからはハルピン経由で長春、大連、旅順へと鉄路が延びている。イルクーツク─チタ間と、スレチェンスク─ハバロフスク間に鉄道が敷設されれば、ロシアの大部隊が極東まで短時日で、移動するようになるだろう。その恐怖と実態を日本で訴えねばならない。廣瀬はそう痛感した。 ウラジオストックでは、日本貿易事務館の事務官、川上俊彦の自宅に世話になった。川上は、ペテルブルグの公使館で通訳を務めていた男で、廣瀬と同じ健啖家。二人はよく食べ歩き、うまも合った。廣瀬が彼を
「川天」 とあだ名したのは、天ぷらが好物だったからだともいう。 廣瀬に日本食を堪能させてくれたのは、川上がペテルブルグから帰国後に結婚した妻だった。常盤という日本人らしい名前だが、函館のミッションスクールを出たクリスチャンで、英語も堪能だった。 その常盤が廣瀬に感心したのは、夫に負けない食欲と、幅広い知識だった。トルストイやゴーゴリー、プーシキンといったロシアの文学者の話は、どこまで続くのかと思うほど造詣が深かった。オペラが話題になると、その筋書きや俳優の名前まで丁寧に教えてくれたという。文人・廣瀬の一面を見る逸話である。 川上夫婦との間で、トルストイの
『戦争と平和』 が話題になった時、廣瀬は 「日本がrソアと戦端を開くことはもう間違いない」 と断言し、こんな事を言い始めた。 「そうなれば、必ず日本が勝つが、勝敗が決するまでに、どれだけ多数の人命が失われるか知れないので、時期を見計らって、ロシア極東総督のアレクセーエフ大将に命がけで会いに行き、両国の平和を早めるため降伏を勧めたいと思う。ロシアは自分にとって第二の故郷だ。自分は無論、日本のためにロシア軍と戦うが、ロシアにも報いる道があるはずだ。それが人道というのではないだろうか」 この思いは日露開戦後も変らなかったらしい。むしろ強くなる一方で、廣瀬とともに旅順口閉塞作戦に参加した斉藤七五郎大尉にも、作戦の途上で披瀝している。 「この度の閉塞戦が成功し、ロシア艦隊を旅順港内に袋の鼠とした暁には、東郷司令長官の許可を得て、一時艦隊を去り、(中国人の操る)
ジャンクで単身、旅順口に赴き、極東総督アレクセーエフ大将に面会の上、赤心を披露して降伏を勧めたいと思う。これによって両国の平和が少しでも早く実現すれば、自分は祖国日本にも、第二の故郷ロシアにも報いることができる。自分はこのことに一身を投げ出してかかりたいと思っている」 斉藤は驚き、第一回の旅順口閉塞作戦から生還後、海軍軍令部参謀の小笠原長生
(中佐) に手紙で、廣瀬の考えを伝えている。 小笠原は幕末の老中、小笠原長行の子で、海軍兵学校十四期。廣瀬の一期先輩になる。
『坂の上の雲』 では秋山真之が、小笠原の出目なら水軍の戦術に関する古書物も家にあるだろうか、貸してほしいと頼む場面がある。 本人も軍事史に関する文筆活動が好きで、海軍内で日清戦史編集委員を務めたし、日露戦争後は
『東郷元帥伝』 を書いた。こうした活動が、その後の東郷の神格化にもつながり、 「東郷さんの番頭」 などと揶揄されたこともsる。このころの廣瀬の心境が今わかるのは、この小笠原の筆まめによるところも大きい。 廣瀬から、日本とロシアとの板ばさみの思いを聞かされたもう一人が八代六郎である。日露戦争では巡洋艦・浅間の艦長として、第二艦隊
(上村彦之丞司令長官) に属して戦った。八代はすぐには無謀と思ったが、海軍兵学校の生徒時代から廣瀬の性分は知り尽くしている。簡単には翻意しないだろうと考えて、時期尚早ということで何とかなだめようとしたが、廣瀬は
「十分決心し、その所存であった」 と記している。 |