〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/19 (金) 第 七 章 シ ベ リ ア 横 断 (三)

シベリア鉄道は、ウラル山脈に至るまで大平原を走る。そこを越えれば、針葉樹の大森林・タイガに変る。所々に寒村が見えるほ以外、雪と氷に覆われた単調な景色が続く。
東シベリアの首都イルクーツクまでモスクワから十日かかった。距離にして九千キロ。その間、汽車には食堂もなく、暖房もほとんど効いていなかったという。
ペテルブルグからモスクワまで走る汽車には寝台車や食堂があり、浴室まで完備していた。
モスクワ以西は欧州であり、そこから東はアジアであった。それが当時のロシアの国情である。
イルクーツク─チタ間はまだ、鉄道が敷設されていなかった。バイカル湖が難所になっているためで、この湖は十二月から凍結し、二隻ある砕氷船が客を運ぶ。しかし、廣瀬がやって来た一月末には、氷が厚くなり過ぎて砕氷船も役に立たない。それでも東を目指す客は、橇を雇って湖を横断するのである。
廣瀬はイルクーツクに一週間滞在した。その間に大量の手紙や絵葉書を書いた。ペテルブルグの人々のほか、日本にいる家族、友人たちにも余すことなく送った。遺書のつもりだったと言われる。

(永遠にいとおしき貴女の身の上に神の幸あらんことを祈る)
旅行日誌にそうメモしたのはアリアズナを思ってのことだった。
チタ駅から再び鉄道に乗り、スレチェンスクへ。そのころのシベリア鉄道の終点である。ここからハバロフストックまで約二十キロ。ロシアはアムール鉄道を敷設して、シベリア鉄道を完成する腹づもりだ。
その地形や建設状況を偵察することが旅の目的だから、廣瀬は未開の地の単独行動に挑まねばならない。唯一の足は橇である。廣瀬は車のない箱馬車のような橇を買い、中に藁や麦かすを敷き詰めた。
防寒服には一番、気を使った。一番下に着る毛織の襦袢には、背筋にあたるところに真綿を縫いつけた。腹にはフランネルを巻き、その下は真綿のズボン下、さらにその上からフランネルのズボン下をはいた。外套は三枚の重ね着である。まず毛皮の外套を着て、その上に軍服の外套、さらにシネーリというロシアの高級外套を着た。
頭には耳まで覆う毛皮の頭巾。手は毛糸の手袋の上に毛皮の手袋をはめ、それをいつもはシネーリのポケットに入れたが、それでも旅行中は指先がしびれた。
靴は熊の皮を裏返しにした長靴。それをじかに履いたり、時には半靴の上から履いたりした。そのいでたちで一メートルほどのフランネルを下半身に巻きつけ、橇に乗るのである。
引き馬と御者は駅で雇う。廣瀬は三等立てにして二月十二日、スレチェンクスを出発した。ブラゴヴェンチェンスクに昼夜兼行の強行軍で到着したのは十八日午後六時。さすがに疲れて、ここで六日間の休養をとった。
疲れるのも当然だった。例えば食事だが、持参したスープはズックの中で凍って固い塊になった。引き馬を替える駅ごとに、それを金槌で割り、鍋で温めて飲む。調理した肉も凍り、やはり鍋で温めてもらうが、時間がかかるために半煮えの塊を小刀で削って食べることが多かった。パンももちろん凍り、削り取って口にする。旅行中には零下三十五度にもなった日が三度もあった。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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