〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/19 (金) 第 六 章 竹 田 の 廣 瀬 家 (五)

廣瀬にとって、人格を作るうえでの影響が大きかった女性は祖母の智満子と春江である。智満子は、不正や不潔を著しく憎み、見栄っ張りや怠情、忠孝に反する行為を厳しく戒めた。近所の悪童たちにも容赦なかったため、彼らから 「鬼ばば」 とあだ名されるほどだったが気にすることもんかった。
「わが家は南北朝のころから尊王のために奮戦した菊池の子孫じゃ」
廣瀬に繰り帰し、そう教えたのも智満子であり、武家の誇りを明治になっても持ち続けた女性だった。
廣瀬の人柄を評する言葉に 「海の侍、益荒男」 というものがある。多分に武士道を感じさせる言動がそう評価されたのだが、廣瀬が散った日露戦争では同様に評価される軍人、将軍が多かった。
例えば、陸軍第三軍司令官の乃木 希典がその一人だろう。乃木で有名なのは、難戦の末に降伏させたロシア旅順要塞のアナトリー・ステッセル司令官を、名誉を重んじて処遇した水師営の会見である。この場面は後に、小学校唱歌の 「水師衛の会見」 で歌われるように、見事なものだった。
ステッセルはレイス参謀長ら部下三人と六人の騎兵とともに、会見場の農家に現れた。乃木は伊地知幸介参謀以下すべての側近を連れて会見場に現れ、ステッセルらを終始、紳士的に扱った。ステッセルの奮闘を称え、昼食をともにし、互いに帰国できたら文通をしようと約束するまでだった。従軍記者たちは再三、会見写真を望んだが、乃木は拒否した。
「後世まで恥を残すような写真を撮らせることは、日本の武士道が許さない。会見が終わって、友人として同列に並んだところならよし」
そうして撮られた一葉の写真は、乃木とステッセルが並んで座り、その周囲を両国の将校たちが囲んでいる図である。乃木ら日本側の将軍、将校は軍刀を持ち、ロシア側もサーベルを手にしている。降伏軍としての屈辱を与えない乃木の配慮は徹底していた。
その乃木の武士道で、不思議なことが筆者にはある。乃木はこの旅順要塞攻略戦で、次男の保典少尉を戦死させた。その前に行われた金州の戦いでは、長男の勝典中尉を失っている。乃木家には他に長女と三男がいたが、いずれも夭折している。
このために野木家断絶を恐れた山県有朋や寺内正毅が、養子を立てて存続させようとしたが、乃木は遺言でそれを堅く拒否し、乃木家は絶えた。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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