〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/18 (木) 第 五 章 ロ シ ア 留 学 (三)

廣瀬がロシアに留学して一年余りが過ぎた明治三十二年三月二十日、公私にわたって廣瀬の面倒を見てくれた八代が帰国命令を受けてペテルブルグを去った。代わりに赴任してきたのが野元綱明である。海兵七期の中佐で四十一歳。八代の一年先輩に当る。この野元が、まだ書生臭さが抜けない廣瀬にとんでもない人生経験を積ませることになる。
後で思えば、初対面のころの対応がまずかった。八代のことが話題になり、弟のように可愛がってもらったこと、公私にわたって過分の面倒を見てもらったことなどを包み隠さずに話した。実は野元は二度目のペテルブルグ駐在である。それも今回は、後輩の八代の後釜だったから、内心面白くないところに、八代への絶賛を聞いたものだから、廣瀬を八代の子飼いと見て、なにかと辛く当るようになった。
例えば、英国で艤装中の戦艦・敷島の回航委員だった上泉コ弥少佐がペテルブルグを訪れた時のことだ。上泉は、巡洋艦・浪速に乗り組んでいたころ、たまたま乗り合わせた伊東博文が艦橋で葉巻を吸っているところを見つけ、遠慮せずに叱責した武勇伝が残る人物である。廣瀬の好むタイプであり、廣瀬は自分の下宿に十日間も滞在させ、ペテルブルグ市街をくまなく案内した。
後日、それを知った野元が言った。
{遊びに来た連中の世話を焼くのもいいが、度が過ぎると、相手によってはご機嫌取りに見られても仕方がないことになる。場合によっては公私混交になりかねない。前任者はどう考えておったか知らぬが、物事にけじめのつかぬやり方は、俺は大嫌いだ」
この野本の下で、廣瀬がペテルブルグ駐在員の辞令を受けるのは、八代が去って一ヶ月余りの四月二十五日である。もはや立場は留学生ではなく、駐在武官の野元の部下である。この口うるさく、嫌味な上司と付き合う日々を送るのは廣瀬が三十一歳の時である。
職場が息が詰まるようになった一方で、廣瀬のロシアでの交際は徐々に広がりを見せていた。酒も煙草もやらず、ロシアで流行のトランオウの賭け事もしない廣瀬に、ファンとでも言うべき人たちができ始めたのである。

(当今の若手には殆ど見るを得べからざるの士として、一部の者には多少の敬愛を得申し候)

廣瀬が手紙にそう書く一人がフォン・ペテルセン博士であり、ウラジミール・コワレフスキー少将だった。ペテルセンはペテルブルグ大学の教授で医学者。廣瀬の留学が一年になるころ、八代が紹介してくれた人物である。
コワレフスキーと知り合ったのはそれから一年後の八月。ロシア海軍大臣主催の園遊会に駐在武官として招かれた時だった。
一通りの挨拶を終えた後、廣瀬は庭に出て池のほとりを散策していた。酒を飲めず、ダンスも苦手な廣瀬には、それぐらいしかすることがなかった。
ふと気付くと、同じように手持ち無沙汰のロシア海軍士官がいた。軽く会釈して近づいてきた士官は、ほどよい親しみを見せながら名乗った。
「ロシア海軍のウラジミール・コワレフスキーです。よろしく」
「日本の海軍大尉、廣瀬武夫です。よろしくお願いします」
たとたどしいロシア語に、コワレフスキーは好意を持ったらしく、自分が海軍で水路部長を務めていること、子爵の家柄であることなどを話し、自宅を教えて、近く遊びに来るように盛んに勧めた。
(昨今は屡々、一家族の夫婦児女を伴いて来訪するもあり。夕餐もしくは茶など振舞い、快く談話優遊歓を尽さしめ居り申し候。独身者の住居に男児は兎も角婦人の来訪など当地においては殆ど見るを得可からざるものにして、武夫見ること一家親族もただならず、寧ろ異数の待遇に有之候)
コワレフスキーに招かれるうちに、家族全員に慕われ、互いに訪問し合うようになったが、それがペテルブルグでも珍しいことだと、廣瀬は手紙に認めている。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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