海軍の近代化を急いでいた山本は、青年士官の留学を奨励した。明治三十年の派遣先は英国、フランス、ドイツ、アメリカ、そしてロシアだった。 選考は
@ 海軍兵学校の卒業成績 A 人物 B 健康─ で決まると言われた。軍人である以上、鍛錬を積んでいるのは当然で、一番ものを言ったのは兵学校の卒業成績だった。 当時の最強海軍国で、日本が手本としている英国には十五期首席の財部が選べれた。海軍力の成長著しいフランスには十一期次席の村上格一が行くことになった。新興海軍国のドイツには十二期で三位の林三子雄が選考された。林は兵学校で教官を務めていて、人物でも推されたらしい。アメリカには十七期首席の秋山真之。秋山は水軍の古戦術などの研究にも余念がなく、その軍事知識にはせでに定評があった。 問題はロシアだった。一応の内定者に廣瀬の名が載ったが、選考官から異論が出て、最終認定者の山本のところまで決定が持ち越されてきた。廣瀬が選考に残った理由は、ロシア語を早くから学んでいたことである。廣瀬は水雷艇・迅鯨に乗り組んでいた明治二十六年ごろから、東方に勢力を拡大するロシアに注目し、ロシア語を独学していた。当時の海軍には英語とフランス語に堪能な士官は多かったが、ロシア語に強い士官が少なかったことも廣瀬には好都合だった。 反対者は、廣瀬の卒業成績を問題視した。骨膜炎で一学期を棒に振った廣瀬が十五期八十人中六十四番だったことはすでに触れた。違例の面会時に廣瀬に好感を持った山本は成績の再調査を命じた。 「六十四番というのは何かの間違いではないか。六番か四番の記載ミスではないのか」 「間違いございません。廣瀬は六十四番です」 そう復命した副官は、意外な成績も発見してきていた。第八期水雷術練習尉官教程を首席で卒業していることを、である。 この期の卒業生は二十三人だから、それほど多くはない。が、その顔ぶれで選考官たちの考えが変った。次席が、今回の選考で最も若い期で留学生に選ばれた秋山だったのだ。 「それならば、廣瀬の実力は秋山より上ということになるのではないか」 山本が言うと、副官がさらに新しい調査結果を報告した。 「聞くところでは、廣瀬は兵学校在学中に大病を患いまして、ろくに勉強が出来なかったそうであります」 「十分に実力のある男だな」 山本の一言で、廣瀬のロシア留学は決まった。 |