時代はやがて三国干渉へと進み、日本にとってはロシアの脅威に対抗する事が至上命令になる。しかし、廣瀬の勤務は比較的穏やかに推移した。明治二十九年四月、測量艦・磐城の航海長になった。主な任務は朝鮮半島南岸部の精密測量である。翌年には海軍軍令部諜報課へ。軍務が少なく、あるいは艦上勤務から陸上勤務に変って、時間に余裕も出来たからだろう。この時期の廣瀬には人柄をしのばせる逸話が多い。 秋山真之と一時、下宿を同じくしていたのはこの頃である。秋山の母、貞は当時、秋山の兄、好古と住んでいたが、廣瀬を我が子のように可愛がった。郷里の四国から餅が届いた、雉肉が届いたと言っては廣瀬を呼んで食べさせた。廣瀬はどこの行っても、あの健啖家ぶりを発揮する。それがまた、貞の好みに合ったらしい。 やがて、秋山が家を持ち、貞と同居を始めたので二人の同居生活は終わる。廣瀬は勝比呂の家に転がり込んだ。 まもなく三十歳になろうとするのに、嫁をもらって家を持つ気はさらさらなかった。 「おれには嫁が多すぎる」 秋山にはそう言っていたという。廣瀬は言う嫁は海軍と柔道、それに漢詩だった。正岡子規と共に大学予備門に通い、一時は文学に傾倒していた気が合うのは、この漢詩好きの部分と、ともに負けず嫌いの性格ゆえだったのだろう。 ただし軍人としてのタイプは好対照である。廣瀬は率先垂範を好む士官で、明るく、部下の面倒見もいい。秋山は頭脳明晰で、後に
「知謀湧くが如く」 と形容された作戦家タイプである。一言で言えば、廣瀬には将器があり、秋山は参謀に向いていた。 このことは二人とも自覚していたらしく、明治三十三年に英国ロンドンで再開した際にこんな会話を交わしている。日本が英国に注文した戦艦・朝日の視察に行った時の事である。 「秋山、いつか俺がこの艦の艦長になり、貴様が参謀を務めてくれたら、世界最強の軍艦になるぞ」 「そうだな。俺が艦長で貴様がさんぼうじゃあ、どこに突き進むかわからんからな」 |