〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/17 (水) 第 四 章 日 清 戦 争 (一)

豪州方面の遠洋航海から帰った廣瀬は明治二十五年六月二十九日付で軍艦・筑波の分隊士を命じられた。筑波は六日前に横須賀鎮守府の非役艦から呉鎮守府の練習船に変ったばかりだった。
廣瀬の乗艦中、筑波は関門海峡の測量任務などを果たした。軍人らしい働き場がにことに気がつかれただろうか。この間の気持を廣瀬は句に託している。
幾歳の 恨みや門司の 平家蟹
翌二十六年、廣瀬は横須賀に復帰し、水雷術練習のため軍艦・迅鯨乗組みを命じられた。ようやくにして、軍人らしい働き場を得たと言える。
廣瀬が練習したのは第八期尉官教程で、同期生は二十三人いた。六ヶ月余りの教程を、廣瀬は首席で卒業した。このことが後に、廣瀬の前途を開き、また水雷屋としての軍人人生を決める事になる。
翌年、輸送船監督として民間からの徴用船の門司丸に乗り組んだ。廣瀬が日清戦争を迎えるのは、この門司丸乗り組み中のことである。
戦争中、門司丸の任務は陸兵輸送や朝鮮半島の仮根拠地の設営、兵器弾薬糧食の補給など、後方支援である。
(十年一日のごとく身体を練磨し、一朝事ある日、奮って人後に落ちざるべきの働きをなさんとせしに、武運拙く身これ (黄海の海戦) に臨むこと得ざりしとは遺憾遺憾)

友人に宛てた廣瀬の手紙である。
廣瀬が参戦できなかった黄海海戦は、制海権の確保のための清国北洋艦隊との決戦を狙っていた日本の連合艦隊が、輸送船を護送中の北洋艦隊に遭遇した事で始まる。連合艦隊は旗艦・松島以下十二隻三万六千七百トン。北洋艦隊は清国が誇る大型船艦・定遠、鎮遠以下十二隻三万四千四百トン。ほぼ互角の戦力だったが、巨艦を擁する北洋艦隊は護送中にもかかわらず、正面から海戦を挑んで来た。
午後零時五十分ごろから始まった砲撃戦は約五時間の後、連合艦隊の勝利に終わった。最新鋭艦を揃えた連合艦隊は、その速力と砲数で勝り、経遠、到遠、超勇といった清国艦を撃沈し、二隻を大破した。
それのみならず、清国自慢の定遠、鎮遠のも大損害を与えた。連合艦隊は一隻も失うことがなかった。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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