〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/17 (水) 第 三 章 青 年 士 官 (六)

この航海中、比叡は二人の乗組員を失った。一人は便乗者の松岡好一という人で、シドニーで上陸したまま帰艦しなかった。出港するに当っても、ついに行方がわからず、行方不明者扱いになった。
もう一人は三等水兵の弘瀬倉太で、シドニーを出港した翌日、病死した。弘瀬の分隊の水兵だった。遺骸は水葬にされ、分隊士だった弘瀬は遺族に、詳細な手紙を書いた。
(小官故弘瀬倉太につき、ここに言うに忍びざる凶事を通報するの不幸に逢い申し候。倉太儀実に昨二十四年十二月三十日午前四時零分、南太平洋上において長眠、帰らぬ旅に赴き候。書きつらぬるも涙の種徒に各位の御愁傷を重ねることとは存じ候えども、言わで止むべきことならねば、運び兼ねたる筆をとり、書綴り候間、宜しく御推読下さる可く候)
さらに廣瀬は二句を霊に捧げた。
壮夫のとむらい弾丸の手向けかな
武夫の目にも涙の手向けかな 
翌年の元日、と言っても弘瀬の死去からわずか二日目のことだが、廣瀬は海軍軍人の人生に奇異なものを感じた。四年前の元日には海軍兵学校在学中で、東京・築地で迎えた。翌年は兵学校が移転した江田島だった。翌明治二十三年は比叡に少尉候補として乗り組み、南太平洋上で元日を迎えた。前年の二十四年は海門乗り組みで、横須賀だった。そして今、再び南太平洋上にいる。この運命の不思議さは何だろう。
この正月は、艦内は歓声に包まれた。相撲大会が催され、無聊をかこっていた若者たちの活気にあふれたのだ。
空気銃の射的会も行われ、腕試しを申し出る乗組員が百人近かった。演劇場も設けられて手品や踊りを披露する者が続出した。
折りしもこの日から、廣瀬は甲板士官を命ぜられていた。相撲大会では勧進元兼年寄役を、射的会では幹事兼審査員兼賞品係を、演劇場では勧進元兼世話役を務めねばならなかった。そればかりか、すべての催しで、表彰係りを受けざるを得なかった。
無骨一辺の廣瀬はどんな顔をしてこれらの役目を果たしたのか。残念ながら 『航南私記』 には、このあたりの心の機微を知る記述がない。そこがまた、廣瀬らしいと言えば廣瀬らしい気がする。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ