〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/15 (月) 第 二 章 海 軍 兵 学 校 (二)

海軍兵学校の校風是正の為にリーダーシップを取った廣瀬だが、学業は決して芳しくなかった。明治二十二年四月の卒業時、海軍機関学校官制が改まった事などで、卒業生は八十人いたが、廣瀬の席次は六十四番目である。兵学校の卒業席次はハンモックナンバーろ言って生涯、出世栄達につきまとった。
(今回は是非奮発仕らんと存じ候処、またまた例の不勉強にや、未だ確たる成績は知れ申さねども甚だ不成績にて、漸く卒業仕り候事と存じ、実に申し訳もなき次第、恐慌の至りに御座候処、別に御叱咤もなく、却って後来の御訓戒、御慈愛の段、何と申し上げようにも無之候)
廣瀬痛恨の手紙である。ここには弁解がましいことは一切書かれていないが、廣瀬の不成績には理由があった。
卒業の一年余り前の明治二十一年三月三十一日、海軍兵学校の生徒全員が飛鳥山に行軍して行う、恒例の大運動会が催された。最大行事は駈足競争だった。一分隊十人で編成し、築地から飛鳥山までの約十五キロの駈足を行い、落伍者もなく先着した分隊が優勝するルールである。
この駈足は、英国人教官が海軍兵学校に持ち込んだダートマス海軍兵学校の教育法の一つである。長距離を走ることで、自己と闘う精神力と艦隊勤務に堪え得る体力をつくろうというものだ。蛇足ながら、江戸期の武人である武士は、日常生活では決して走らなかったから、兵学校開校のころの生徒は戸惑った事だろう。
廣瀬の分隊は連日、放課後に厳しい訓練を続けていた。当日は、疲れた者を先頭にして走る作戦で臨んだ。落伍者がいれば勝利はおぼつかない。「弱い者を励まして、かばう」 廣瀬の人柄がにじむ作戦である。
この廣瀬分隊の強敵が、十七期の秋山真之率いる分隊だった。秋山は小柄ながら敏捷で、マスト登りや駈足で負け知らずの生徒として知られた。
この俊足自慢の秋山が率いる分隊を、廣瀬分隊は抜き去って優勝した。
(幽霊が指揮している)
と思わず思ったほど、その優勝分隊の指揮生徒の顔が青かった。
『坂の上の雲』 (司馬遼太郎著) には、その時の様子がこう書かれている。
廣瀬は激しい痛みをこらえながら走っていた。その夜は発熱もして、喉の渇きがひどく、一睡もできなかった。翌朝、起床ラッパで起き、無理をして整列に加わったが、当直教官が異変に気付いた。
軍医官の診たては骨膜炎だった。左足の膝から下に炎症があり、一時は切断の診断まで下った。その後。切断こそ見合わされたものの、五月四日に患部を切開。以後も五回、手術が行われ、松葉杖で歩けるようになったのは五月二十六日。退院は六月の下旬だった。まもなく暑中休暇になったので、一学期は丸々休んだことになり、これが卒業席次に響いたのである。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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