〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/25 (木) 第 十二 章 軍 神 余 話 (一)

廣瀬と共に第二次旅順口閉塞作戦に参加し、行方不明になった杉野孫七は慶応二 (1866) 年生まれである。廣瀬より二歳年長。三重県栄村 (現鈴鹿市) の農業、杉野孫太郎の長男で、六人の弟妹がいた。
地元では、専照寺の住職に付いて論語や孟子を学んだという。高等小学校を卒業後は小学校の代用教員、巡査、看守などの職業を経験した。
海軍志願兵制度が設けられたことを知り、最初の志願兵として横須賀鎮守府海兵団に志願入隊したのは明治十八年。翌年には二等若水兵に任じられた。
体力に優れ、特に筋力があって、固い鉄のロープでも素手で結びつけることができたという。日清戦争では、第五号水雷艇乗り組みで、威海衛の防材を排除するなどして連合艦隊の行動を支援し、二等兵曹に昇進した。
この際、敵艦の砲弾を、海戦の記念にと言って持ち帰り、専照寺に奉納しているから、度胸も相当にあったと言っていい。
その後、戦艦・朝日を、建造された英国から回航する際、回航委員付として派遣されている。廣瀬と秋山が、いつかはこんな艦に乗りたい。俺が艦長で、貴様が参謀だ、などと話したいたころであう。
廣瀬と杉野は後年、そろって朝日乗り組みになった。こうした足跡を追うと、二人は因縁深い。帰国後、杉野は一等兵曹に昇進した。
廣瀬と違って、杉野には妻子がいた。明治二十九年一月、三重県津市生まれの加藤柳子と結婚。杉野は三十歳、柳子は十九歳だった。翌年には長男、修一が誕生。三年置いて次男、健次、さらに二年後にには三男、寿雄が生まれた。
旅順口閉塞作戦が立案されて、閉塞隊員を連合艦隊が募った際、約二千人の志願者の中に杉野もいた。豪放で情に厚い水雷長、廣瀬に心酔していたからだ。しかし、潜航でもれた。妻帯者だったし、杉野自身が長男だったからである。閉塞隊員は人物、能力だけでなく、係累の少ないことが条件だった。作戦の危険が考慮されていた。
第二次の作戦では、指揮官を補佐する指揮官付を付けることになり、その選考は各艦の指揮官に任された、二番船の福井丸に乗り組む廣瀬は杉野を選んだ。
当時の隊員名簿を見ると、興味深いことがわかる。総指揮官の有馬良橘が乗る千代丸をはじめ福井丸以外の三隻はすべて、士官である中尉が指揮官付になっている。杉野は一等兵曹、下士官である。その杉野を指揮官付に指名したのは、廣瀬がよほど、杉野の人柄や能力を買っていたために違いない。
実際、杉野は豪気と沈着冷静なことで、周囲の評価も高かった。技量では、電気技術に秀でていて、閉塞船爆破の任務に最適だった事も廣瀬は考慮したのだろう。
旅順港口に向かう前の三月二十日、杉野は柳子に宛てて、こんな手紙を書いている。
(あらためていふにはいたらねども、若しわたしが死骸でかへりたら国許に葬りてくれ。又なきあとは東京の父上に相談して国許に引きこめ。子供を世に出るまでいなかで教育せよ。其の内一人は廣瀬少佐へ高等小学校卒業ののちあづけて海軍軍人にしたててもたふのだよ。あきあとは海軍職員目録を見れば、あの人の勤め先が知れる。今度は一寸したあぶないことをやるから一寸申し残しておくよ。決してしんぱいするにはおよばん。なにごともうんだ)
杉野が行方不明になった時、三十八歳、柳子は二十七歳だった。杉野は兵曹長に昇進した。遺体がないので、佐世保の自宅には、出撃前に残していた遺髪と遺書が送られた。佐世保海軍墓地で海軍葬が行われたのは四月五日。二十七日には郷里の専照寺で、住職が導師になって、村を挙げた葬儀が行われた。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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