軍神となることが文字通り、神として祀られることだとしたら、廣瀬が実際にそうなったのは昭和十年のことである。この年の五月、郷里の竹田に廣瀬神社が創建された。 創建の許可が下りたのは昭和六年のことだった。その年に九月に満州事変が起こり、やがて日中戦争、太平洋戦争へとつながっていく。 神社の創建を各界に、熱心に働きかけたのは、廣瀬を熱心に信奉する陸軍将校たちだったと言われる。神社創建の翌年には、二・二六事件が起きている世相を考えると、反対の声はないに等しかった。 わずかに異を唱えたのは、海軍兵学校で同期の秀才・財部彪だった。財部はすでに、海軍大将に進んでいたが、その立場から見れば意外なほど強く創建に反対した。 「廣瀬の業績や人柄には問題はない。祀るにふさわしい軍人だったし、いったん祀った以上は、永遠に護持されなけらばならない。もし途中で、それが出来かねる事態が起きたら、かえって廣瀬の霊を冒涜することになる」 このころの日本史を冷静に見ると、陸軍の暴走が日本を世界から孤立させ、英米との全面対決に突き進もうとしているころである。海軍はぎりぎりの段階まで、対英米海戦に反対、もしくは消極的だった。特に米国と戦って勝つには、海戦初期に大勝して講和に持ち込む短期決戦しかないと海軍首脳は考えていたと言われるから、財部はひょっとすると、昭和二十年以後のことを予測していたのかも知れない。そう思うと、さすがに山本権兵衛に、娘の婿にと所望された男だと感心してしまう。 銅像、記念碑などの撤去が相次いだ後も廣瀬神社は信仰を集めた。廣瀬の誕生日の五月二十七日には例大祭が行われるが、戦後も海上自衛隊の幹部らが欠かさず、参拝を続けている。 廣瀬の生誕四十一年に当った平成二十一年の例大祭では、廣瀬の胸像の奉納式が併せて行われた。胸像は、廣瀬を敬愛する海軍兵学校六十五期から七十七期までの卒業生約六百五十人が二百二十三万円の募金を寄せ、製作されたものだ。二体作られ、一体は広島の教育参考館に寄贈された。 この像の元になったのは、ロシア駐在時代の廣瀬の写真である。そのころの廣瀬が、ロシア語の習得に苦しみ、社交界との交際に悩み、ダンスの練習に悪戦苦闘したことは、これまでに書いた通りである。軍人というより文人と言うべき時代で、それ故に銅像は蝶ネクタイをした平服姿である。 「中佐は文学や詩作にも優れた文人でありました。これから百年、胸像に親しんでもらうには、この文人としての姿を広く知ってもらう方がよいと考えました」 胸像製作の世話人を務めた、海軍兵学校七十七期の春山和典さんはそう話した。 廣瀬を再評価し、胸像を作って後世に、その人となりを伝えようという活動は、平成二十二年にも行われた。こちらは高さ二・五メートルの立像を、竹田市立歴史資料館広場に建立しようというもので、十月二十二日にお披露目された。
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