〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/24 (水) 第 十一 章 軍 神 (一)

旅順港口でわずかな肉片となった廣瀬の遺体は、廣瀬が水雷長を務める戦艦・朝日に帰った。朝日の艦長は、これをアルコール漬けにして保存し遺品と共に佐世保港に送った。大佐と少佐、士官二人を付き添わせたというから、相当に威儀を尽くした措置である。
遺品は、日頃から愛用していた望遠鏡と尺八、血で染まった海図と艦上で着る衣服だけだった。余計なものがほとんどない。質実剛健の艦上生活がいかにも廣瀬らしい。
尺八は、廣瀬の終生の理解者で上司だった八代六郎が贈ったものである。八代はこの尺八を、日清戦争に出陣の折、この世の名残に奏したという。八代の尺八好きは有名で、日露開戦時も巡洋艦・浅間の艦長室に持ち込み、連合艦隊にとって初戦になる仁川沖海戦の前夜に吹いた。それを目撃した新聞記者はこう書いた。
「風流提督」
源平の戦いを前にした平家の公達を思わせるような記事で、八代は憤然としたが、思うところもあったのだろう。
「これはやはり、軍人にふさわしくないかな」
そう言うと、尺八をすっぱりやめてしまったという。
佐世保港では、鎮守司令長官をはじめ、幕僚や士官、儀仗兵数百人が出迎えた。新聞記者は喪服で到着を待ち、集まった市民は数千人に上った。
遺体と遺物は、黒布に包まれて弾薬箱に安置され、軍艦旗で覆われた。上陸後、軍楽隊が 「悲しみの極み」 を演奏する中、佐世保駅に向かった。
この途中、包帯姿の男が弾薬箱の柩に取りすがり、あたり構わず泣き崩れた。
「中佐、廣瀬中佐」
男は、連合艦隊の参謀、松村菊男だった。松村は有馬良橘とともに、旅順口閉塞作戦を立案し、強力に推進した大尉である。危険だと渋る東郷平八郎らを、自分たちで赴くのだからいいだろうと説得し、閉塞船の二番船、報国丸に乗る予定だった。しかし、その直前の第一次旅順攻撃で、戦艦・三笠の後部艦橋を襲った一弾で重傷を負い、佐世保海軍病院に送られていた。
この松村の代役として、有馬が選んだのが廣瀬で、廣瀬は報国丸で指揮をとった後、続いて福井丸に乗り、戦死したのである。松村が健在なら、 「この作戦は参謀自らが行く」 という有馬の方針が貫かれ、廣瀬の参加も戦死もなかっただろう。
広島駅では、廣瀬の兄、勝比呂と妻の春江、娘の馨子が同乗した。廣瀬が可愛がった姪の馨子は十一歳になっていた。妻帯しなかった廣瀬にとっては娘にも近い存在である。その馨子が悄然と柩に寄り添い、悲しみをこらえる姿がまた、周囲の涙を誘った。
東京・新橋駅では海軍次官と海軍軍令部長、東京府知事がプラットホームで出迎えた。海軍差し回しの馬車で麹町の勝比呂の自宅に向かったが、そこでは海軍大臣、山本権兵衛と東郷の夫人が玄関先で待っていたというから、国を挙げて弔意を示したと言っても過言ではない。
葬儀は四月十三日、青山斎場で行われた。海軍葬だった。一時安置されていた築地の水交社を出た柩を先導したのは警視庁の騎馬巡査二人である。軍楽隊二十五人と儀仗兵二百二人がそれに続いた。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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