〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/23 (火) 第 十 章 旅 順 口 (五)

退却中の平野三等機関兵曹が見立てたように、第二次の閉塞作戦も不十分な結果に終わった。連合艦隊は大本営に第三次の作戦を要望した。今回は閉塞船十二隻を出撃させる大規模な作戦だったため、これ以上の汽船消費は軍事物資等の輸送に差し支えると、大本営は渋ったが、ロシア太平洋艦隊封じ込めが日露戦争の趨勢を決するとして、連合艦隊は要望を押し通した。
結局十一隻が出陣した第三次閉塞作戦は五月二日に決行された。今回の総指揮官は砲艦・鳥海の艦長、林三子雄が選ばれた。林は海軍兵学校十二期で、廣瀬がロシアに行った明治三十年の海軍留学生派遣で、ドイツに遊学した男である。留学が決まった時は兵学校で教官を務めていた秀才で、この作戦時は中佐だった。危険この上ない作戦は、選りすぐりの士官に指揮を取らせるという連合艦隊の方針は、この時も変りはなかった。
二日は昼過ぎから西北西の風が強く、夜になるとますます強まり、荒波のために閉塞船隊は僚船を見失う事がしばしばだった。このために隊形も滅茶苦茶になり、このまま旅順港口に突入すれば隊員の収容は困難、と林は判断した。
「行動中止」
午後十時過ぎ、林が乗船する新発田丸から信号が発信された。しかし、荒れた闇夜のために信号がかき消され、新発田丸に従って避難地に転進したのは二隻に過ぎなかった。残り八隻はそのまま港口に突進した。
八隻の港口突入は三日午前二時過ぎ。ロシア側は第二次の戦闘以後、海底に二重の防材を築き、探照灯を増強し、哨戒艇群も強化していた。
そこに四分五裂の閉塞船隊が飛び込んだから、ひとたまりもなかった。猛烈な砲火にさらされ、方向を見失う閉塞船が続出した。大半は港口に至ることなく、撃沈され、自沈を余儀なくされた。十八人が乗り組んだ朝顔丸は全員が戦死した。
二十人が乗り組んだ佐倉丸は海岸に打ち上げられ、指揮官らは自決。隊員はロシア兵と戦って戦死する者が多く、重傷者のみが病院に収容された事が、旅順要塞の開城後にわかった。
この作戦では、参加した隊員百五十人中、無事に衛艇に収容された者は六十七人にとどまった。海上漂流中にロシアの捕虜になった隊員も十七人いた。
連合艦隊参謀の秋山真之の懸念が現実になり、閉塞作戦はこれで中止された。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
Next