〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/23 (火) 第 十 章 旅 順 口 (二)

ようやくのことでカッターを海面に下ろし、後甲板で隊員の集合を待った。
「おい、皆集まったか」
廣瀬がやって来て、点呼を取るように粟田に命じた。幾分、甲走った声だった、と粟田は記憶している。
爆破装置のスイッチwp持って、すでにカッターに乗り移っていた隊員から番号を言ったが、なにしろ万雷の砲声である。よほどの大声でないと聞こえない。
「大きな声で、もっと大きな声で」
ようやく番号を唱え終わると、一人足りない。
「水雷長、杉野がいません」
粟田が報告した。前甲板で一緒に作業していた、という声が上ったため、それらの隊員とともに廣瀬は上甲板を探した。
「杉野、杉野」
「杉野一等兵曹」
暗闇の中、炎上する千代丸のわずかな灯りや、一瞬の探照灯の照らしを頼りに、くまなく探したが、返事すらない。敵の砲弾は一段と熾烈になった。福井丸に後続していた弥彦丸は、福井丸のさらに左に出て投錨。爆沈に成功した。殿の米山丸は、福井丸と千代丸の中間に進み、港口中央に出て投錨しようとしたが、レシチェリヌイの魚雷を受けた。しばらく惰力で走ったが、海岸近くまで来て沈没した。閉塞船の船体が海上から消えるにつれ、福井丸に砲火が集中し始めていた。
「そうだ。一等兵曹は多分、敵の魚雷が命中した時に舷外に跳ね飛ばされたのではないでしょうか。はっきり見たわけではないが、きっとそうだ」
そう言い出したのは、魚雷命中後に爆発点火の用意をしていた飯牟礼である。港口突入の際に船首錨を投じ、船首塗具庫に仕掛けた六インチ砲弾への点火を指揮するのは指揮官付の任務だった。それを考え合わせれば、うなずける推測ではある。
「よし、すぐ戻る。しばらく待て」
廣瀬は再び前甲板に走り出た。粟田をはじめとする隊員十六人はカッターと後甲板で配置についたまま、次の命令を待った。
「杉野、杉野」
廣瀬の声が暗闇に響く。その間もカッターの周囲では敵の砲弾が水柱を上げ、銃弾がブスブスと不気味な音を立て、海面に突き刺さる。
「どうだ。杉野は戻ったか」
「まだです。まだ戻りません」
「わかった。もうしばらく待て」
こんなやりとりが二度あった。二度目の後は、廣瀬はかなりの時間帰って来なかった。水雷艇長までやられたのではないか。そんな危惧が隊員たちに広がったころ、ようやく廣瀬が戻って来た。三度目の捜索では廣瀬は舟底まで捜したらしい。生還すれば、この捜索についても、筆まめな廣瀬のことだからきっと詳細に書き残しただろうが、それはかなわなかった。
「杉野はまだ来ないか」
「まだです」
「そうか。さてはいよいよやられたか。残念だ」
そう言う廣瀬にはまだ未練があった。短い沈黙の後、粟田は足元に水が流れて来たのに気がついた。海水が上甲板を洗い始めたのである。
「水雷長。本船が沈みます」
もはや猶予はなかった。僧院退避を廣瀬は命じ、十六人の隊員とともにカッターに乗り込んだ。
「爆破」
廣瀬が次の命令を出したのはカッターが福井丸から五挺身ばかり離れた時である。福井丸は既に沈没しかけている。それでも爆破装置を作動させたのは、船の破壊を徹底してロシアの引き揚げ作業を困難にするためだ。福井丸は後部で大爆発を起し、炎に包まれて、やがて沈んだ。
「港口はまだだいぶ開いてるぞ。だめだ、だめだ」
カッター内で、三等機関兵曹の平野松三郎は言った。探照灯の中で、四隻の閉塞船の沈もうとしている位置がはっきり見えた。閉塞作戦はまたも、所期の目的を果たすには至らなかった。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
Next