〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-Y』 〜 〜
評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/15 (月) 第 一 章 維 新 の 子 (五)

明治十二年、兄の勝比呂が海軍兵学校に入学した。そのころ、父重武が言ったことがある。
「お前は陸軍がよかろう」
兄弟が陸海軍に揃って出仕すれば、菊池の血統を引く広瀬家の面目になると考えたのである。しかし、廣瀬はきっぱりと答えた。
「私も海軍に行きます」
廣瀬が生まれ育った竹田は豊後の内陸部にある城下町である。その後に過ごした父の任地、飛騨・高山は日本屈指の山里だ。いわば海を知らない廣瀬がどうして海軍を志し、尊敬する尊王の士であった父の勧めを断ったのか。
その理由は坂本龍馬だったと言われる。重武から繰り帰し聞かされた龍馬の評判。勝海舟のもとで神戸海軍操練所の塾頭を務め、海援隊を興した維新回天の功労者。 「土佐の坂本という男はたいしたものだ」 。龍馬への憧れが、廣瀬に海軍兵学校への進学を志させた。
明治十五年、廣瀬は高山の煥章小学校を卒業した。十四歳である。海軍兵学校に入るにも、そのために上京するにもまだ若すぎた。廣瀬は校長の要請を受け入れて、母校の代用教員として教壇に立った。代用教員を務めた期間は、わずか半年だが、その間に廣瀬の頑固な人柄を示す逸話がある。
当時の幹事 (事務長)倣岸ごうがん な男で、教師に払う俸給をあたかも、自分の懐から出すように威張っていた。
「俸給を払うから取りに来い」
呼びつけられても廣瀬は放っておいた。教師の俸給は民の税金ではないか。どうしてこんなやつに頭を下げる必要がある。頭を下げるべき相手は町の人たちだ、という理窟である。ついには俸給の未払いは数ヶ月に及んだ。これにはさすがの幹事も根負けし、廣瀬の元に俸給を持参したと言うのである。この逸話自体が真偽のほどがわからないとも言われる。が、ありそうな話しである。夏目漱石の 『坊ちゃん』 の山嵐との意地の張り合いを思い起こさせる逸話は、頑固一徹の廣瀬の少年期にふさわしいと思うのだ。
廣瀬の上京は明治十六年十月である。父・重武は勝比呂の海軍兵学校卒業を待って上京を許した。下宿先は勝比呂が出て行った後の山県小太郎の家である。山県は岡藩時代、尊皇派として重武が苦難を共にした同志である。幕末の会津戦争では、薩摩の桐野利秋とともに会津城受け取りの大任を果たした。明治維新後、大宮県知事や浦和県知事を務め、兵部省属や海軍一等属を経て赤羽根海軍造兵局に出仕していた。生真面目な性格で、三里 (12キロ) を歩く通勤の為に毎朝三時には起床していたと言う。
この山県が廣瀬にとって、智満子に続く教師になった。山県は十五歳の廣瀬に 『日本外史』 を教え、楠木正成の 「七生報国」 の精神を植えつけたと言われる。
  (武士もののふ の腹切り刀右に持ち左の手にて事をなさばや)
酔えば決まって、山県が口にしたという歌である。幕末の動乱を生き抜いた尊王の志士の家で、廣瀬は自らの武士道に磨きをかけたのだ。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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