廣瀬の生家があった武田市は、大分市から約六十キロの内陸部にある。JR豊肥線に乗って豊後竹田駅で降りると、滝廉太郎の
「荒城の月」 が流れる。滝は廣瀬と共に、竹田が生んだ郷里の先人である。 九重、阿蘇、祖母、傾
などの山々に囲まれた城下町は名水の里としても知られる。 「荒城の月」 は、九重の山々を眺める岡城址をイメージして作られたという。 この静かな城下町が戦火に見舞われたのは明治十年五月。廣瀬が竹田小学校に入った翌年で、九歳になるころである。その年の二月に西南戦争が起こり、田原坂の激戦に敗れて後退する西郷軍に、官軍が追撃をかけたのである。 その戦闘の進展は、櫻田啓氏の
『廣瀬武夫─旅順に散った 「海のサムライ」』 によると、こんな具合だったと言う。 西郷軍は竹だの街に鹿児島奇兵隊本営、別新政党大分などを置き、役所や警察署を襲撃した。やがて大分港に警視庁の抜刀隊七百人が上陸。追撃した官軍と共に西郷軍に切り込んだ。抜刀隊の巡査は大半が元会津藩士で、会津戦争の報復戦とばかりに戦意盛んで、勇猛で鳴る西郷軍もじりじりと、肥後街道を後退せざるを得なかった。 激戦が収まったのは五月二十九日。竹田の町家千五百戸が焼けた。広瀬家を含む茶屋の辻の士族の家屋もすべて焼けた。 この戦災に、智満子は祖先の位牌を白い風呂敷に包み、廣瀬の背中に斜めに結びつけ、廣瀬の弟・潔夫、妹・登代子の手を引いて避難した。廣瀬の母・登久子はすでにこの世のいない。七歳上の兄・勝比呂は海軍兵学校の受験準備のため上京して不在で、まだ子供の廣瀬に家と家族を守る責任が負わされたのである。 当時の西郷軍、薩摩の士族は日本最強と信じられた軍団である。明治維新後、廃藩置県で禄を失った士族の不満は社会に充満し、乱が相次いだ。先駆けは明治七年の佐賀の乱である。この時、首謀に担ぎ上げられた江藤新平は薩摩の西郷隆盛に連携を呼びかけたが、相手にされなかった。その後、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と不平士族の反乱が続いたが、最大の不満集団である薩摩は泰然として動かなかった。 佐賀の乱から三年後、当時唯一の陸軍大臣だった西郷を擁して立ち上がった西郷軍は、熊本城を攻めあぐみ、官軍に押されて敗走を重ねた。西郷軍を追い詰めたのは徴兵で編制され、
「農民軍」 と西郷軍が見下した官軍である。最新の銃器を装備した官軍は、白刃をきらめかせて突入する西郷軍の白兵戦を恐れて押されたが、巡査隊の補強を受けると持ち直し、銃撃戦で有利に戦いを進めた。いわば武士の時代の終焉を廣瀬は子供心に見たのである。この見聞が廣瀬にもたらしたものが、決して小さくなかっただろうことは想像に難くない。 |