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評 伝 広 瀬 武 夫

2012/10/14 (日) 第 一 章 維 新 の 子 (一)

明治元 (1868) 年五月二十七日。廣瀬武夫の出生日である。この年は半ばまで慶応四年。前年の十月十四日は大政奉還、王政復古が実現したばかりで、幕末の混乱もようやく、明治維新という形で収束に向かおうとしていた。
この年はまた、廣瀬家にとって大きな希望が開けた年でもある。尊王運動の咎で家禄を召し上げられ、謹慎処分を受けていた廣瀬の父、重武が許され、ほどなく大坂裁判所取締役に任じられたのだ。
廣瀬家が仕えたのは豊後。岡藩七万石である。藩祖は中川秀成。文禄三 (1594) 年、豊臣秀吉の命で播磨・三木から移封した。関ヶ原にの戦いでは東軍に属したため、徳川の世も生き残り、一度の移封もなく廃藩置県まで、豊後の大野郡、直入郡、大分郡を治めた。
徳川の九州仕置きは面白い。その大半に外様大名を充て、支藩を除けば唯一の譜代大名・小笠原家を豊前・小倉に配して九州探題とした。中央への唯一の出入り口に、西国譜代筆頭で武家典礼を司る家を置き、文武両様で薩摩・島津家をはじめとする九州雄藩を統制しようと考えたのである。
中川家もまた外様大名である。幕末の動乱では他藩同様、親徳川派よりも尊皇派の勢力が強かった。家中では一門家老の中川土佐、上士の小河一敏、山県小太郎らが、朝廷の為に尽力する事を約し、東西に奔走した。
が、天保十一 (1840) 年、中川家の事情を一変させる 「事件」 が起こる。十一代藩主の久教が死去。久敏の養女・栄子の婿として後嗣になったのが伊勢・藤堂家の次男、久昭だった。
藤堂家の家祖は高虎という。戦国の世で、北近江の浅井長政を振り出しに主を次々に変え、 「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」 と公言したと言われる武将である。
秀吉に仕えた後は徳川家康に急接近した。 「股肱の臣のごとくお使いくだされ」 とすり寄り、事実、その通りに働いた。関ヶ原の戦いでは脇坂安治らを東軍に寝返らせる調略を進んで行い、江戸城改築では縄張り (築城) の名手と言われた技術を遺憾なく発揮した。大坂夏の陣では河内方面の先鋒を志願し、一族の多数を失う代わりに家康の信頼を勝ち取った。家康死去の際には枕元へ入る事を許されるほど徳川家に親しみ、外様大名でありながら譜代大名 (別格譜代) の座を占めるに至った。
その家に育った久昭が藩主に収まったことが、岡藩尊皇派の不幸だった。久昭は藩主になった翌年、小河一敏ら尊皇派を藩政の中枢から排除した。 「岡藩七人衆の変」 と言われる政変である。小河らはその後、他藩の勤皇派との連携に活路を求める。土佐脱藩、坂本龍馬の遊説、呼びかけに応じたのもこの頃である。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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