また、内裏から、少納言入道信西を御使いとして、関白の許に、禅定殿下も流罪とするよう命令があった。関白殿は、
「かしこまり承りました。ただし、父を配所へ送っておいて、その子が摂?
として、政務を入れ替わるのは、忠臣の礼に背くことになる。ここは、忠通の関白辞表をお受け取りいただけましょうか」 と、にがにがしげに答えた。確かに理の通っていることなので、禅定殿下の流罪のことは沙汰やみになった。禅定殿下はまた富家の別荘に帰ることを希望なさったが、朝廷からお許しが出ない。奈良ではなおまずい、それでは知足院にお移ししようと決まり、勅命によって、関白殿の許からお迎えに人を遣わしたが、
「前例がない」 とおっしゃて、お移りにならない。そして、御書状を朝廷に提出なさった。その書状には、起請の詞が書き載せられていたということである。 「朝廷の為に野心を挟むならば、現世にあっては、たちどころに、天神地祇の罰をこうむるなり、来世においては、三世の諸仏の救済から漏れてしまう」
と書いていらした。しかし、受け入れられず、禅定殿下は知足院にお移りになった。 |