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保 元 物 語 (下)

2012/06/13 (水) 左大臣殿御死骸実検の事 (二)

同じき廿六日、左大臣殿の公達きんだち右大将うだいしやう 兼長かねなが とて十九歳、中納言中将ちゆうなごんのちやうじやう師長もろなが とて大将殿と御同年どうねん 、左中将隆長たかなが とて十六歳なりたまひけるが、三人、心をひと つにして、祖父富家ふけ 殿どの へ参りて、申されけるは、 「昨日、勅使尋ね来て、大臣おほい 殿どの の墓を掘り穿ちて、死骸を実検し帰りけるとこそ承り候へ。親がかやうに罷りなりて候はんずるその子にて、たと ひ死罪をなだ められて候ふとも、二度ふたたび 人におもて を向へ候はん事、いかがあるべく候ふらん。身のいとま をたまはり、出家しゆつけ 遁世とんぜい をもして、露の命の候はん程は、先公せんこう菩提ぼだい をもとぶら ひ候はん」 と泣く泣く申されければ、入道殿下にふだうでんか 、御涙を流させたまひて、 「左府 せたまひて後は、各々おのおの をこそ深くたの み奉りて候へ。まこと左様さやうおぼ し立ちなんには、何に りてかおい の命一日いちじつ 片時へんし もながらへ候ふべき。大臣だいじん はこの世にても随分ずいぶん 意趣いしゆ ふか かりし人なれば、こけ の下までも、さこそ思はるらめ。各々身をまつた うして、ある世もあらば、朝廷につか え奉り、摂政せつしやう関白かんぱく をもして、父祖ふそあと を継がんとは、思ひたまはずや。深き罪に沈み、遠国おんごくうつ されたる者も、命あれば、先途せんど を達する事、異国・本朝に多かりき。後漢ごかん孝宣かうせん 皇帝は、禁獄せられたりしかども、獄の内より でて後、二度ふたたび 位に きたりき。てう豊成とよなり 左大臣さだいじん ふ人、大宰権師だざいのごんのそつうつ されたりしかども、すなは ち帰京を りて後、二度ふたたび 丞相しようじやう の位に昇りたり。かかるためし もなきかは。さりとも、春日大明神かすがたいみやうじん てさせたまはずは、などか本意を げざらん」 と、おほ せられも てず、御涙にむせ ばせたまひけり。されば、、 「この御意ぎよい を破らん事も罪深し」 とて、当時は出家もなかりけり。

同二十六日、左大臣殿の子息、右大将兼長十九歳、中納言中将師長、これは右大将殿と同じご年齢、また左中将隆長十六歳、以上三人揃って、祖父富家殿の許に出向いて、 「昨日、勅使が遣わされて、大臣殿の墓を掘りおこして、死骸を調査したとのことです。親がこのようになってしまって、その子として、たとい死罪は許されたとしても、これまでと同じように振る舞うのはどうでしょうか。お許しを得て、出家遁世でもして、ひっそりと生きのびて、父の菩提を弔いたく思います」 と泣く泣く訴えたところ、入道殿下も涙を流しながら、 「左府が亡くなってから後は、お前たちを深く頼りにしている。もし、本当にそのようなことを決意したのなら、これから後、頼る者の無い老いた自分は一日片時たりとも生きて行くことは出来ない。大臣はこれまでも随分意地の強い者だったから、死んだ後もその思いはもち続けているだろう。お前たちもこのままの生活をして、時変って朝廷に仕え、摂政、関白にもなって、祖父の後を継ごうとは思わないのか。深い罪に沈み、遠国に配流された者でも、生きていれば祖父のあとを継ぐことが出来た者は、異国、本朝でも多くの例がある。後漢の孝宣皇帝は禁獄されたが、獄の内から出た後、再び位についた。わが朝でも、豊成左大臣と言う人は、大宰権師に左遷されたが、すぐに許されて帰京、再び丞相の位に昇った。このような例もないではない。それにしても、春日大明神がお見捨てにならないかぎり、どうして本意を遂げないことがあろうか」 とおっしゃるや、涙に咽ばれた。そこで、 「祖父の夢をこわすのも罪深いこと」 ということで、この際、出家は思いとどまった。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ