同二十六日、左大臣殿の子息、右大将兼長十九歳、中納言中将師長、これは右大将殿と同じご年齢、また左中将隆長十六歳、以上三人揃って、祖父富家殿の許に出向いて、
「昨日、勅使が遣わされて、大臣殿の墓を掘りおこして、死骸を調査したとのことです。親がこのようになってしまって、その子として、たとい死罪は許されたとしても、これまでと同じように振る舞うのはどうでしょうか。お許しを得て、出家遁世でもして、ひっそりと生きのびて、父の菩提を弔いたく思います」
と泣く泣く訴えたところ、入道殿下も涙を流しながら、 「左府が亡くなってから後は、お前たちを深く頼りにしている。もし、本当にそのようなことを決意したのなら、これから後、頼る者の無い老いた自分は一日片時たりとも生きて行くことは出来ない。大臣はこれまでも随分意地の強い者だったから、死んだ後もその思いはもち続けているだろう。お前たちもこのままの生活をして、時変って朝廷に仕え、摂政、関白にもなって、祖父の後を継ごうとは思わないのか。深い罪に沈み、遠国に配流された者でも、生きていれば祖父のあとを継ぐことが出来た者は、異国、本朝でも多くの例がある。後漢の孝宣皇帝は禁獄されたが、獄の内から出た後、再び位についた。わが朝でも、豊成左大臣と言う人は、大宰権師に左遷されたが、すぐに許されて帰京、再び丞相の位に昇った。このような例もないではない。それにしても、春日大明神がお見捨てにならないかぎり、どうして本意を遂げないことがあろうか」
とおっしゃるや、涙に咽ばれた。そこで、 「祖父の夢をこわすのも罪深いこと」 ということで、この際、出家は思いとどまった。 |