〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (下)

2012/06/09 (土) 義朝幼少の弟悉く失はるる事 (七)

四人の乳母めのと ども、首もなきむくろ 横にいだ きつつ、をめ けども、さけ べども、こと とぶら ふ者もなし。ただ、山彦やまびこ のみぞ答へける。船岡山の事なれば、峰の小松の秋風は、悲嘆の声をふもと野辺のべ夕露ゆふつゆ は、別離の涙にことならず。
その中に、天王殿の乳母、内記平太ないきのへいたひも き、ふところ に押し入れて、養君やうくんはだへ を我が膚に合はせつつ、泣く泣く口説くど き云ひけるは、 「今歳七年の間は、片時へんし も離れ奉らず。今より後、たれ かはひざ の上に ゑん。誰かは首をもいだ かんずる。 『いつか所知しよち しりて汝にあづけん』 と宣ひし有様ありさま も、いづれの時にか忘るべき。また、幼き御心に、死出しで山路やまぢ をば、いかなる者に伴ひて、いかにとしてか越えたまはん。しばらく待たせたまへよ。後れ奉らじ」 とて、腹 って、打ちかさ なりてぞ してける。残る三人の乳母どもも、これを見て、誰かおとおく るべきとて、皆腹をぞ切ってける。天王殿の恪勤かくご 一人いちにん 、自害す。乙若殿の恪勤一人、自害す。かかりければ、船岡山にても、主従十人は せにけり。
波多野次郎、首ども持ち帰りて、内裏へ参る。この由を奏しければ、 「実検じつけん に及ばず」 とて、返されたり。さしも父を恋ひ奉りければとて、円覚寺ゑんがくじ に送りて、一所にぞ納めける。

なかで、天王殿の乳母内記平太は、衣服をゆるめて、主君を我が懐に入れて、養君の肌を我が肌にこすりつけて泣く泣く、 「この七年の間、片時も離れた事がない。これから後、膝に上にかかえ、首を抱きしめることは出来ない。将来、領地を知行することになったら、汝にまかせようなどとおっしゃていたことも忘れられない。また、死出の山路を伴う者とてなく、幼い御心、心もとなく思いながら越えられることだろう。しばらきお待ちください。お待たせしませんよ」 と言うや、腹を切り、主君の死骸に重なり倒れた。残る三人の乳母どもも、これを見て、 「我らも遅れをとるわけにはゆかない」 とばかり、皆腹を切った。天王殿に仕える武士一人が自害した。乙若殿に仕える武士一人も自害した。かくして、船岡山でも、主従十人が亡くなった。
波多野次郎は首を内裏に持ち帰った。事の次第を報告したところ、首実検をするまでみないということで、そのまま返してよこした。あれほど父を慕っていたのだからということで、円覚寺に届けて、父と一緒に葬った。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ