〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (中)

2012/06/06 (水) 義 朝 弟 ど も 誅 せ ら る る 事

そののち左馬頭さまのかみ討手うつて方々はうばう へ差しつか はして、舎弟しやてい なら びに余党よたう の者どもを尋ねけるに、八郎為朝ためとも大原おほはら の奥にありけれども、太刀たち 打ち振りて、鳥の飛ぶがごとくに せにけり。
残る五人の者どもは、鞍馬くらま貴船きふね芹生せれふ の里、所々ところどころ に、つか してありけるを、 し寄せ推し寄せ、から め取る。既に船岡山ふなおかやま にて斬らんとす。各々おのおの 、馬より下りて、 たり。その中に、掃部助かもんのすけ 頼仲よりなか畳紙たたうがみ にしめしたる水取りて、くちびる 推しぬぐ ひ、頸のまはり押し でて、 「あは れ、義朝は、心せば く、われ 一人いちにん 世にあらむとしたまふものかな。自然しぜん の事のあらむ時は、後悔こうくわい したまはんずるものを。一期いちご の内も覚束おぼつか なし。子孫しそん 繁昌はんじやう 不定ふぢやう なり。但し、かく ひても、今は無益むやく なり。命を惜しむに似たり。そもそも 、頼仲、勅定ちようぢやう と云ひ、父のめい と云ひ、多くの者を奉行ぶぎやう して、死罪しざい流罪るざい に行ひしかども、身のうへ に当たりては、何と振舞ふるま ふべしともおぼ えぬぞや」 とて、打ちわら ひ、西に向ひ、念仏 十反じつぺん 唱へて、頸を延べて たせける。まこと にようぞ見えし。残る四人も、皆々、かくのごとし、いづれもいづれもよかるけり。
左衛門さえもんの 大夫たいふ 信忠のぶただ 、これを実検じつけん して、事の由を奏しければ、 「 いん の御中陰ちゆいん の間なり、獄門ごくもん には くべからず」 とて、穀倉院かくさういん南裏みなみうら の、草深き所に捨てられたり。

その後、左馬頭は討手を方々に派遣して、舎弟らや同志の者どもの行方を探索した。八郎為朝が大原の奥に居るところを発見したが、太刀を振りまわして、鳥が飛ぶように行方をくらませた。残る五人の弟どもは、鞍馬、貴船、芹生の里など所々に疲れてひそんでいたのを、押し寄せ押し寄せして搦め取った。ついに船岡山で斬ることになった。それぞれ、馬から下りて、並んで座っていた。なかで、掃部助頼仲は、水をしみ込ませた畳紙で唇をぬぐって、首のまわりを撫でながら、 「ああ、義朝は狭量で、自分一人だけ栄達を遂げようとするつもりらしい。しかし、万一の時はきっと後悔するにちがいあるまい。義朝一期の内でもおぼつかないこと、まして、子孫の繁昌などわかったものではない。ただし、このようなことを今になって言ったところで、どうしようもない。まるで、自分の命を惜しんでの言と受け取られるだけだ。これまで、頼仲は勅定といい父の命といい、これらを受けて多くの者を指図し、死罪や流罪の処刑を行ってきたが、いざ自分に死罪がふりかかってみると、どう振舞ったものか見当がつかない」 などと笑い、西に向かって念仏数十遍唱えて、首を突き出して討たれた。剛胆な振舞い、実にみごとであった。残る四人の者どもも、頼仲同様、それぞれみごとな最期であった。
左衛門大夫信忠が実検して、報告したところ、 「今は鳥羽院の中陰の間である。これらの首を獄門に懸けるなどしてはならない」 とのことだったので、穀倉院の南裏の、草深い所に捨てられてしまった。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ