その後、左馬頭は討手を方々に派遣して、舎弟らや同志の者どもの行方を探索した。八郎為朝が大原の奥に居るところを発見したが、太刀を振りまわして、鳥が飛ぶように行方をくらませた。残る五人の弟どもは、鞍馬、貴船、芹生の里など所々に疲れてひそんでいたのを、押し寄せ押し寄せして搦め取った。ついに船岡山で斬ることになった。それぞれ、馬から下りて、並んで座っていた。なかで、掃部助頼仲は、水をしみ込ませた畳紙で唇をぬぐって、首のまわりを撫でながら、
「ああ、義朝は狭量で、自分一人だけ栄達を遂げようとするつもりらしい。しかし、万一の時はきっと後悔するにちがいあるまい。義朝一期の内でもおぼつかないこと、まして、子孫の繁昌などわかったものではない。ただし、このようなことを今になって言ったところで、どうしようもない。まるで、自分の命を惜しんでの言と受け取られるだけだ。これまで、頼仲は勅定といい父の命といい、これらを受けて多くの者を指図し、死罪や流罪の処刑を行ってきたが、いざ自分に死罪がふりかかってみると、どう振舞ったものか見当がつかない」
などと笑い、西に向かって念仏数十遍唱えて、首を突き出して討たれた。剛胆な振舞い、実にみごとであった。残る四人の者どもも、頼仲同様、それぞれみごとな最期であった。 左衛門大夫信忠が実検して、報告したところ、
「今は鳥羽院の中陰の間である。これらの首を獄門に懸けるなどしてはならない」 とのことだったので、穀倉院の南裏の、草深い所に捨てられてしまった。 |