〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (中)

2012/06/03 (日) 為 義 降 参 の 事 (四)

入道、泣く泣くのたま ひけるは、 「今度の合戦の大将軍を承りしも、 が身はおいすえ なれば、たと ひ思ひ ありとても、いか ばかりの栄花えいぐわ をか すべき。ただ、子供の行く末を思ひつるゆゑ なり。また、只今、くび べ、恥を捨て、 でんとするも誰故たれゆゑ ぞ。和殿原がため ぞとよ。されば、いかならむ谷の底、岩木の陰にも身を隠し置きて、入道がならむやう をこそ聞き てたまはめ。あひ かま へて、一所いつしよ へばし つるなよ。一人いちにん 二人ににん いかなる事に ふとも、残りとど まる者、などか本意ほんい げざらん。この中に九郎は、いま だ十五か六かにこそなるととおぼ ゆれば、弓の本末もとすえ をも知らず、まして、武略ぶりやく の道、前後ぜんご 不覚ふかく の者なれば、八郎、これをばあひ して、かつう は我が形見かたみ とも見よ、かつう は子とも思ふべし。されば、はや、 う」 と、いとま ひけるが、また、涙にむせ びて、行き るべしとも見えざりけり。
入道は泣く泣く、 「今度の合戦の大将軍をうけたまわったが、自分は老残の身なので、どんな勲功を挙げようともじぶんの出世など思ったこともなかった。ただ、子供たちの将来を案じてしたことだ。自分が、今首を差し出し、恥を捨ててまで出頭しようとするのは、他ならぬお前たちのためを思ってのことよ。だから、敵に見つからぬよう、谷の底、岩木の陰にでも身を隠して、自分の処置がどうなるかうかがうよう。決して、同じ所へ逃げ込んではならない。一人二人は殺されたとしても、生き残ったものが本意を遂げたらいい。なかで、九郎はまだ十五か六のはず、弓術については充分な心得はあるまい。まして武略などについてはまったく不案内者なのだから、八郎よ、九朗をいつも引き連れ、親の形見、いや自分の子と思うがいい。それゆえ、早く行け」 と別れを告げたが、また、涙にむせんで、出発出来そうになかった。
人目もやうや う近付けば、各々おのおの 暇乞ひて、落ち行きけり。父子ふし 恩愛おんあい の道、今生こんじやう 一世いつせちぎ り、今を限りと思ひければ、子供、立ち帰りて父をかへ す。子供思ひ切りて行きければ、父、また、子供を喚び返す。一人いちにん ならず、二人ににん ならず、六人に別れるる父の思ひ、老いたる親をただ一人ひとり 振り捨てて行く子供の心、いづれもいづれもかた なく、さこそは悲しく思ひけめ。嵯々ささ として行方ゆくかた を知らず、眇々べうべう としてはる かの道に でにけり。蒼梧さうごけぶりなび く方にたぐひ、白楊はくやうきり 、いづくをさしてか尋ぬべき。鳥にあらざれども四鳥してう の別れを悲しみ、うを にあらざれども洪魚こうぎよ の思ひに沈む。なみだ 爛干らんかん として、たましひ 飛揚ひやう す、前途ぜんど ほど とほ し、後会こうくわい その を知らず。
人が不審がって近付いて来たので、それぞれに別れて落ち延びて行った。父子恩愛の道は今生一世の契り、これが最後の別れと思うと悲しく、子供たちは戻って来て、父を呼び戻す。子供が思い切って離れて行くと、今度は父が呼び戻そうとする。一人、二人ではなく、六人もの子供に別れねばならない父の思い、また老いた親をただ一人見捨てなければならない子供の心、いずれもどうしようもなく悲しく思ったことであろう。険しい道で行くべき方わからず、々と広がる道に出た。蒼梧の煙のなびく方に従い、白楊の繁茂するなか、いずれに向かえばいいか見当もつかない、鳥ならずとも四鳥の別れを悲しみ、魚ならずとも洪魚の思いに沈んだ。涙はとめどなく流れ、魂抜け出て、茫然の態であった。
さる程に、花沢はなざは左馬頭さまのかみもと に行きて、かうと申したりければ、義朝、大きに悦びて、鎌田かまだ 次郎正清まさきよ を使者として、力者りきしや どもに輿こし かせて、急ぎ迎へにつか はしけり。既に下松さがりまつ の辺にて入道に行き合ひ奉りて、帰にけり。左馬頭、出で合ひ、対面して、涙を流し喜び、しつらふたる所へ入れ奉り、女房三人付け奉りて、様々やうやうついたは り奉る。後は知らず、入道殿、いか ばかりかうれ しと思はれけん。
さて花沢は左馬頭の許に出向いて、入道殿の申し出を伝えたところ、義朝は父が生きていることを知り、鎌田次郎正清を使者として、力者どもに輿をかつがせて、急いで迎えに遣わした。下がり松の辺りで、入道殿に出会い、帰って来た。左馬頭は迎えに出て来て父に対面、涙を流して喜び、用意した部屋に案内し、女房三人を付き添わせて、あれこれ世話をした。後々どうなるかはわからないにしても、入道殿は大変嬉しそうであった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ