〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
あ らす じ

2012/05/09 (水) 頼 朝 、 伊 豆 に 下 着 の 事

兵衛佐頼朝は、伊豆いずの くにひる が小島 (静岡県田方郡韮山町) へ流されることになった。
これを聞いたいけの 禅尼ぜんに は頼朝を呼び出し、つくづくとその姿を見て、 「なるほど、わが子家盛と少しもかわらない。家盛の形見として都に留め置きたいのに、伊豆まで流されるとはつらいことよ。そなたを家盛と思い、春秋の衣裳を遣わそう。そなたも尼を母と思い、後の供養をしておくれ。伊豆に流されたら大人しくして、再び憂き目を見ることがないように」 とさとしたので、頼朝は、 「伊豆では髪も剃って、父の後世を弔おうと存じます」 と答えて出て行くのであった。
同じく三月十五日、頼朝は役人たちに伴われて都を出ると、山法師や寺法師らが、大津の浦 (滋賀県大津市) に市のように集まって見物したが、 「この人物を伊豆へ流すのは虎の子を野に放すようなもの、恐ろしいことだ」 と噂していた。弥平やへい 平衛びょうえ は名残を惜しんで送って行ったが、頼朝が瀬田の橋を過ぎるとき、 「向うに見える森は何という所か」 と聞くので、 「建部たけべ の宮と申して、八幡神をお祭り申しております」 と答えると、頼朝は、 「源氏の氏神だ。今夜通夜して、お別れを申し上げたい」 といい、弥平兵衛のいさめも聞き入れず参詣して、 「南無八幡大菩薩、いま一度頼朝を都へお帰しくださいまし」 と祈ったのも、末恐ろしいことである。
ここに上野こうずけの 源五げんご 守康もりやす という義朝の家来がいた。人目を避けながら、いつも頼朝のいる所へ出て来ては慰めていたが、たまたま老母が重病にかかっていたのに、名残を惜しんで粟田あわた ぐち関山せきやま ・大津とお供を続け、この建部まで来て通夜をしていたところ、夜中に夢想があったので、人の寝しずまった後、頼朝の側へ寄って来て、
「伊豆国にお着きになっても、ご出家などなさいますな。不思議な御夢想を賜りました。八幡に参詣しておりますと、御殿の中から、 『頼朝の弓矢はどこにあるか』 とのお尋ねがあり、 『ここにございます』 と、二人の童子が弓矢を持って参りましたところ、 『深く収めておけ。時が来れば頼朝に遣わそうぞ』 と仰せられましたので、御殿深く収められました。またその後、あなたさまが白い直垂ひたたれ 姿で参られ、庭にかしこまっておいでになると、銀の盆に打鮑うちあわび を六十七、八本お置きになって、 『それを頼朝、頂戴せよ』 と、御簾みす の中から押し出されましたのを、あなたさまは、ふつふつ・・・・ と召し上がられましたが、一本だけをお残しになり、 『それ守康、頂戴せよ』 と投げ出されましたので、わたくしが頂いて、食べたとも懐中したともわからないうちに、夢は覚めてしまいました。あなたさまは、必ず世にお出になるに相違ございません」 と、ささやいた。頼朝はだれかに聞かれているかも知れないと思ったので、返事もしなかったが、くり返しうなずいていた。
夜も明けたので、頼朝は八幡大菩薩に暇乞いして出で立ったが、守康は、 「せめて今日一日お供したく存じますが、老母が重病でございますのでこころもとのうございます」 といって、暇乞いして帰って行った。
弥平兵衛宗清は篠原しのはら (滋賀県野洲郡野洲町篠原) まで送って、これも都へ帰ったので、頼朝はいかにも名残惜しそうにしていた。
さて、伊豆国の蛭が小島に頼朝を送り届けて、伊東・北条両氏に守護し奉れと申しおいて、役人たちも都へ上ってしまった。

『保元物語・平治物語』 発行所:角川書店  ヨ リ