信頼卿はこのことを夢にも知らず、例によって女房どもを呼び寄せ、 「ここをさすれ、あそこをたたけ」 などと身体
をもませながら寝込んでいた。 二十七日早朝、中将成親
が参って、
「天皇は六波羅へ行幸、上皇は仁和寺へ御幸と承りますが、いかがです」 という。信頼は 「そんなはずはない。経宗
や惟方
らに申しふくめておいた」 といえば、成親は、
「これも、その経宗
や惟方
らの計らいという事でございます」 というので、信頼は跳び起きて殿中を走り回ってみたが、天皇も上皇もおいでにならない。 「どうしたことだ。きゃつらにだまされた」
と、踊り上がって怒ったが、太りきった大男なので、板敷が鳴りひびくばかりで、踊り出したものは何一つなかった。 「このことは、だれにも披露されるな」 といってみても、まったく後
の祭りであった。 一方、悪源太義平は賀茂神社へ詣っていたが、これを聞いて走り帰り、義朝に、
「行幸は六波羅へ、御幸は仁和寺へと承りますが、何とお聞きになりましたか」 というので、義朝も、 「そうは聞いたが信頼はかくしている。こうなったからといって、源氏のならわしだ。心変わりすることがあってはならぬ」
と、内裏にいる軍勢を点検したが、義朝を中心とする源氏の武将をはじめとして、主だった武士二百人、二千余騎の軍勢がいることを確かめた。 左馬頭義朝はそのとき三十七歳、黒糸縅
の鎧に銀で飾った太刀をはき、黒い鞍を置いた黒鴾毛
の馬を引き立てさせている。悪源太は十九歳、源氏伝来の八竜
という鎧をつけ、はやりきった鹿毛
の馬に鏡鞍を置き、義朝の馬と並べて立たせている。十三歳の頼朝も、重代
の鎧、源太
が産衣
をつけ、八幡太郎義家伝来の名刀、鬚切
をはき、兄たちを見まわして、
「平家に先手を取られる前に、こっちから先ず攻め寄せたいものだ」 といっていたが、その姿は、十三歳とは思われぬほど大人びて見えた。 ころは平治元年十二月二十七日辰
の刻
(御前八時ごろ) 、昨日の雪が消え残り、庭上には朝日がさして物具
の金物
に輝きあい、まことに美々しい出陣の景であった。 |