左
大臣殿 は宇治
にましましけるが、新院
既に白河殿 へ御幸
なりたる由 聞
えければ、式部大夫
盛憲 を使者として、
「実否 を急
と見進 らせて参れ」 とて、遣はさる。盛憲、急ぎ帰り参り、この由を申しければ、左大臣、
「さらば」 とて、急ぎ参らせたまふ。ただし、我が御身は、賎
しげなる張輿 にやつれたまひて、醍醐
路 より忍び参らせたまふ。御車には、菅くわん
給料きふれう 登宣のりのぶ
・山城やましろの 前司ぜんじ
重綱しげつな 二人ににん
を乗せて、 「左大臣殿、院へ参らせたまふ」 由を?ののし
りて、六ろく 波羅はら
の前を遣や り通す。兵つはもの
ども、これを見て、左大臣殿の御通りの由、内裏へ告げ申して、車を押し留とど
めたり。信西しんぜい 、この事を心得て、
「左府さふ の乗らせたまひたるにはよもあらじ。ただ通すべし」
とて通したり。 |
左大臣殿は宇治に滞在しておられたが、新院がはや白河殿にお移りのことを耳にされ、式部大夫盛憲に、
「確かかどうか、はっきり確認して来い」 と命じて行かせた。 盛憲は早々に帰参、確かなことと報告したので、左大臣殿もそれではということであわただしく京に向かわれた。ただし、御自身はみずぼらしい張輿に身をやつし乗られ、醍醐路沿いにひっそり向かった。本来お乗りになるべき新院用の車には、菅給料登宣と山城前司重綱の二人を乗せ、左大臣殿、院の御所へ参上と触れまわして、六波羅の前を通り過ぎた。兵どもはこれに気づき、左大臣殿のお通りと内裏に報告、車を押し留めた。信西はこの細工を心得て、
「左大臣が乗られているわけではあるまい。このまま通すがよい」 とおっしゃるので、通した。 |
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昔、漢かんの
高祖かうそ と楚その
項羽かうう と合戦せしに、高祖の軍いくさ
破れて、危あや ふかりける時に臨みて、紀信きしん
といふ兵つはもの を高祖の車に乗せて、項羽の陣の前を遣や
り通させ、高祖は潜ひそ かに逃げ去りぬ。ここに、項羽が兵ども、高祖の車とて押し留む。されども、紀信一人いちにん
乗りたりけり。この紀信と申すは、天下てんか
に勝すぐ れたる兵なりければ、項羽、これを害せん事を惜を
しみて、 「汝なんじ 、我に従ふべくは、助くべし」
と言ふに、紀信、あざ笑ひて言ふ、 「忠臣ちゆうしん
は二君じくん に仕つか
へず。なんぞ項羽が奴やつこ と成らん」
と言い ひければ、項羽、怒りをなして、紀信を殺せりといへり。 |
昔、漢の高祖と楚の項羽が戦った時、高祖の軍勢が敗れてあわやという時、紀信という兵士を高祖の車に乗せ、わざと項羽の陣営の前を通らせ、高祖はこっそり逃げ去ることがあった。項羽配下の配下兵どもは高祖の車と気づき押し留めたが、紀信が一人で乗っているだけであった。この紀信は剛勇をもって知られた兵だけに、項羽は紀信を殺すにしのびず、
「紀信よ、我が軍門に降る気はないか、助けてもいいぞ」 と言ったところ、紀信はあざ笑って、 「忠臣二君に仕えずという。どうして項羽の下部しもべ
となろうか」 と言い放ったので、項羽は怒り、紀信を殺したということだ。 |
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左府もこの例を思おぼ
し召め し出い
でられけるにや、信西もまたこの事を思ひ合はせけるにこそ。いづれもいづれもゆゆしくぞ聞えし。されども、登宣・重綱は、紀信が意こころ
には似ずやありけん、白河殿へ参り着きて、 「あな怖おそろ
し。鬼の打替うちかへ にこそなりたりつれや」
とて、わななくわななく車の内より崩くづ
れ落つ。 新院より、武者所むしゃどころ
親ちかひさ 久をもって、内裏へ御書ごしょ
あり。やがて御返事ぺんじ あり。重ねて院より御書あり。今度は御返事なし。何事にてかありけん、子細を知る人なし。 |
左大臣ももれにならって行動を起こし、信西もまたぬかりなくこの例を思い合わせたのだろう。ともに故実に長た
けてたいしたものだ。しかし、登宣と重綱は紀信ほど肝は太くなく、白河殿に着くや、
「怖ろしいことよ。あやうく鬼の餌えさ
になるところだった」 と、おびえながら車の中から崩れ落ちた。 新院から武者所親久を使者として、内裏へ御書状が届けられた。直ちにお返事があり、再度新院からの御書状が届けられたが、この度はお返事はない。何事をめぐっての御書状のやりとりだったのだろうか、詳しい事情を知る者はいない。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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