内裏の高松殿では、主上が出御されて公卿の評議が始まった。少納言入道信西が、庭うえに控えた義朝に、 「この度の軍の大将は、義朝に賜ったのだ。忠勤をぬきんでた上は、昇殿の義も許されようぞ」
と伝えると、義朝はかしこまって、 「命を捧げました上は、再び生きて帰ることはございますまい。戦いの後にお許しいただけるものばらば、只今お許しをいただきとうございます」
と申して、階下に進み寄った。信西は、 「それはなるまい。そなたの父は地下
の身分である。その子として、この場で昇殿を許されることはいかがでございましょうか」 と申し上げたところ、 「乱世には武をもって鎮
むという。この際、義朝に昇殿させよ」 との仰せがあったので、義朝は武装したまま階
の半ばばかりを昇っていった。これこそ世にも珍しい昇殿の儀であった。 さて、合戦の次第を申せとの仰せがあって、義朝は、 「たやすく敵を従えるには、夜討にまさる策はございません。夜明け前に押し寄せて敵の先手を取ること、これが何よりの謀
でございます。左大臣の力で奈良の僧兵らが明朝到着し、弟の為朝が彼らを率いて参れば、百万騎をもってしても防ぎきれますまい。御所の守りは清盛らにまかせ、私はただちに院の御所に押し寄せて、勝負を決しましょう」
と、申し上げたところ信西は、 「詩歌管弦の道は我らの務めでもあるが、なおその道にも暗いのだ。まして武略の道は、お前たちを頼みにするほかはない。敵の先手を取って、急ぎ出陣せよ」
と命じた。 義朝は本陣に帰って、祖父の八幡太郎義家が後三年合戦のときに著けた、八竜
という鎧 に身を固めて出陣したが、
「今度こそ官軍の大将として思う存分戦い、名を後世に残したい」 と言って、白旗をなびかせながら打ち出す姿は、あっぱれな大将軍と見えた。 時は七月十日の夜、加茂河原には霧が降
りて、京も白河 も、東も西もわからない暁
闇 の中を、敵の篝火
を道しるべに思い思いに馬を進めるうち、早くも大炊
御門 西の河原に着いていた。一方、主上は卯
の刻 (午前六時ごろ)
になると、関白殿・内大臣以下を随
えて、手狭 な高松殿から東三条殿へ行幸なさった。 |