日本の歴史において、平清盛 (1118〜1181) ほど長い時代にわたって 「悪役」 の評価をあたえられ続けた人物は多くなかろう。 清盛に対する否定的なイメージを長く日本人の意識に刻み込む役割を果たしたものとしては、
「 祗園精舎
の鐘 の声、諸行
無 常の響
あり。沙羅 双樹
の花の色、盛者 必衰
の理 をあらはす・・・・」
という著名な一説で始まる軍記文学 『平
家 物語
』 をあげなければならない。 『平家物語』 は、この冒頭のあとに、秦
の 趙高 ・漢
の王莽 ・梁
の周伊 ・唐
の禄山 といった中国の王朝
人物を 「旧主先皇の政治に学ばず、快楽に走り、諌言
を受け容れず、天下の乱れや民の愁いも知ることがなかったために」 滅亡せざるを得なかった例としてあげ、平将門
・藤原 純友
といった朝廷 に対する
謀反人 として滅ぼされた日本の人物を同種の事例として列挙した上で、
「奢 り高ぶりの末に滅んだ最近年の人物」
として平清盛をあげて叙述を進めていく。このような内容をもった 「国民文学」 としての 『平家物語』 の存在が、日本人の清盛に対する認識の形成に大きな影響を与えたことは容易に理解できるだろう。 『平家物語』
における清盛の評価が成立した歴史的背景としては、さしあたり以下のような事柄がわげられる。 第一に、源氏
が建てた武家 政権の最初である鎌倉幕府
が、清盛たち平氏 一門
を 「朝敵 」 として追討する課程で生まれたという事情が指摘できる。古代より天皇を中心とする政治秩序が綿々と続く日本では、
「天皇の敵」 を意味する 「朝敵」 は絶対悪であった。第二に、清盛たち平氏一門が寺院勢力と対立するなかで、仏教理念にもっとも高い価値観があたえられる日本の伝統社会におけるもう一つの絶対悪である
「仏敵 」 の評価が清盛に与えられたことが指摘できる。さらに、政治の重要な局面でみせた過酷で無慈悲な非人道的な行いの伝承もまた、清盛の
「悪役」 イメージを強固に決定づけていった。 しかし、清盛に対するこのような評価は、妥当なものであろうか。実は清盛の事績を丹念に追うことで、 「悪役」
の評価にふさわしい 「奢り高ぶる権勢者」 としての清盛像にまつわる事柄は、そのほとんどが清盛の晩年の行動に起因しているにすぎず、 『平家物語』 の語る清盛のイメージはきわめて一面的であることが知られるのである。清盛の全生涯を史実に即してみるならば、そのような姿は彼の実像にはほど遠いと言わざるを得ないであろう。清盛は、日本の武家政治の原型をつくりあげた人物であり、後世の歴史に与えた影響の大きさは、けっして単純な否定的評価でかたづけられるものではない。 以下本書では、清盛の事績を追いながら、
「武家政権の創始者」 としての清盛の歴史的位置付けを明確にしたうえで、平安時代末期の歴史の激動が一人の政治家の評価を大きく展開させていく課程を観察していくことのしたい。 |