清盛が六波羅へ帰ったのは、十七日夜半とも言われ、また十九日ともする説もある。 十三日に旅先で飛報を受け、十四日、紀州の切目王子から引っ返したとすると、十七日着は、当時の旅程から考えてすこじ早すぎる。十九日であったろう。 ──
とすれば、宮中で公卿 僉議のあったその日のことである。 公卿詮議とは、公卿全員の大集議をいう。 信頼
や惟方 などの首謀者は、さきに叙位昇官の式を行って、まだ宮廷に顔を見せない公卿達を誘い出しにかかったが、それでもなお出仕しない者が少なくない。 きのうきょう、六波羅には、地方武者の駆け集まる者が、ぼつぼつ入り込んでいるとも聞こえ、また、大弐清盛も、京へ向かって、引っ返してくる様子とも聞こえていたが
── 信頼は大して気にしていなかった。 むしろ、かれが気に病んでいたのは、 「あれもまだ出仕せぬ。だれもまだ、顔を見せぬが」 と、いうことだった。当然、それぞれの座にいるべきはずの公卿大官が、依然、出仕を怠っているのは、かれにとって、なんとなく、紫宸殿
の第一座に、落ち着きき切れない気持だった。 (それらの公卿は、自分に、反意を示すものか。あるいは、都合上の欠勤か、旗幟
を明らかにせよと、問う必要がある) かれは、こう結論を持って、その日の僉議に、百官の登殿を求めたのであった。 召集の状には、 (故ナク参代ヲ怠ル者ハ死罪ニ処スデアロウ) と、あった。 さしもの厳命に、内心、信頼の暴挙に反感を抱いていた者も、日和見
主義の者も、多少の正義派すらも、その日はやむなく参内した。 信頼は、紫宸殿の額
ノ間 の高きに座して、冠のかむり方も、天子の真似
をし、天子ならでは召さない小袖
に赤い大口 を重ねて、列座を見おろしていた。 稚気
── と、眼の隅 からそれを笑っているようなのは、例の伊通
卿 ぐらいのもので、多くの人は、 (これは怖ろしいことだ) と想って、信頼の思い上がりに、眼をそばめ合っていた。 こういう人々の心理では、何が議されても、真実の発言があるわけはない。信頼と左右の者の顔つき通りに二、三の廟議
が運ばれて行った。 すると、少し遅刻して、あとから、姿を見せた人がある。 その人は、廊を渡らず、わざと庭上を歩いて来て、階
を登った。見ると、小坪の一隅
には、その人が連れて来たに違いない供の雑色が五人ばかり、装束の下に鎧
を着こみ、太刀を横たえ、うずくまっている。 「や。・・・・勧修寺
殿 が」 「いつにないお気色
ではある」 「それに、物の具つけた供など召されて」 声にこそ、出さないが、そうした驚きが、さっと列座を流れた。わけて、右衛
門督 信頼
の顔は、薄化粧しているだけに、まるで白紙
のように、血の色を失った。 |