「そも信西は、いずこに隠れつるぞ」 「なにはおいても、信西をこそ、追い求めよ」 信頼と惟方
たちは、もう朝廟
の高きにすわってうた。そして武者義朝を、朝夕にせきたてた。 早くても、令は、綸旨
と称
えられている。 (いったい、信西は、どうしたのか?) たれにもこれは謎
であった。十日、十一日、十二日になっても、杳
として知れなかった。 わからないはずである。当
の信西は、乱の直前に、凶変を覚
って、洛内を脱していたのだ。 もっとも、かれが知ったのも、その寸前である。常日ごろ、市中に撒
いておいた放免
(密偵) が役に立ったのだ。だが余りに急で、なにを備えるひまもない。妻の紀伊ノ局を、美福門院の内へ避難させ、同時に、御所の宿直
している息子たちへも、家人
を走らせたのだが、その家人が、院の御門へ行き着かない間に、四隣の夜はもう戛々
と、馬蹄
の音を起こしていたのである。 足もとから鳥の立つように、信西は馬の背につかまった。身に何一つまとう暇もあるはずはない。 無我夢中、ただ洛外の闇へ向かって、走り出した。 従者四名が、影ばらばらに、主人のあとを追いかけた。 大和の田原の奥に、かれの所領地がある。 そこをさして、宇治路から信楽
の方へ逃げ落ちて行った。 事変から四日目の、十三日の昼である。──
だぶん主人は所領地の山奥へでも ── と察して、人知れず都から慕って来た下部
の成沢
熊人
が、信西について落ちのびた従者の成景と、ばったり、木幡
峠
で行き会った。 「お、成景殿ではないか、わがお主
は、どこにいましょう。御無事でおわせられまするか」 熊人に訊かれて、成景は、どう答えようかと迷った。あとを慕って来た情
はくんでやりたいが、しかし下臈
ににはやはり聞かさないでおくに限る
── と思案して、 「いや、御無事だが、この辺にはいらっしゃらない、それより、都はどう変わったか。御子息方や、北の方の御消息は知らないか」 と、あべこべに、訊くことだけを、つぶさに聞き取った。そして、熊人には口実を設けて、 「おぬしは、都へ戻れ」 と、追い返した。 成景は道を急いで、先へ行く主人の信西に追いついた。そして、下部の熊人から聞いた以後の都の有様を話した。信西は死灰のような顔色で、その一つ一つの事実に唇
をふるわせた。 すると、道を追い返したはずの熊人が、血相を変えて、またこれへ戻って来た。都へ帰るつもりで麓近
くまで降りて行ったところ、義朝の一将、出雲
前司
光泰
が、兵七十騎ほどつれて、駆け上がって来るのを見たというのである。信西は、くわっと、眼をかがやかした。最期
を感じた生きものの眼であった。田原の部落はもうすぐだが、そこまで逃げ込んでみたところで、その先、遁
れうべき自信はもてない。 「ううむ・・・・」
と、かれはうなった。 「妙計がある、そこの祠堂
の裏に、百姓どもの鋤鍬
がある。藪根
のない所へ、大急ぎで穴を掘れ、穴を」 なんか分らないが、命じられるまま、従者達は、五人がかりで大穴を掘った。 信西は、その穴の中へ、くびまで入って、あぐらを組んですわった。 「そこらの板きれ、杉皮、なんでもよい。わしの身を、箱形
にかこめ。そして土を入れろ、かまわぬから、わしの身を生き埋めにせい」 その間に、かれは太やかな竹を持ち、中の樋
を抜いて、自分の口にくわえていた。 たちまち、ひざが埋まり、胸が埋まり、首の辺も土で隠れかけた。 「お主
。どうなさいます?」 「まだ、追捕の人数は来ぬな。──
そこの破
れ笠
を、わしの頭に、かぶせろ」 「は。こうで」 「忘れていた。衣の綿をすこし抜いて、わしの鼻、耳などへ、軽く詰めてくれ。・・・・そして地面と平にまで、わしの頭も見えぬよう、土をかぶせて、その上に、あたりの落ち葉を厚く敷いておけ。──
呼吸
をする竹の先を、かすかい出してな、過
って竹筒の穴へ、物など入れるな」 「わかりました」 「畢竟
、敵の光泰
ばらも、この辺りを、あすまでは、よも狩りててはいまい。なんじらは身軽にまかせ、谷の底、峰のいただき、いずこなと一夜を忍び、朝になってからここへ来い。あたり安全と見えたら、わしの身を掘り起こしてくれい」 従者たちは、いわれた通りに、土の跡を、落ち葉や枯れ柴で巧みにごまかした。そして思い思い、猿
の散るように、姿をかくした。 さて、約束のあくる日の朝。 従者五人のうち、二人までが、カサコソとここへ帰った。気にかかる生き埋めの主人の様子をうかがいに来た。 二人の従者は、腰を抜かしたように、そこへすわってしまった。 「あっ。掘り起こされている!」 泣く泣く里人
に訊いてみると、源氏の光泰の手勢は、きのう、そう多くの時も費やさないままに、樵夫
の密訴で、この所にむらがり、たちまち、土の中から信西入道の襟
がみを引きずり出していたというのである。 「そ・・・・そして。──
入道どのは?」 「わしら、里
の者が、わいわいと見ている中での、追討の武者の太刀に、ばさとお首を打ち落とされなすったぞい。南無
ともいわず、討たれなされた。他愛ないもんじゃ。今ごろ、お首はもう都であろうが、胴はまだ、それ・・・・その穴の中に、捨ててある」 木幡
峠
で、信西が光泰に討たれた日の
── 師走
十三日は、後に思い合わせると、熊野路の旅先にあった大弐清盛が、六波羅からの早馬で、都の変を知った日と、ちょうど同日であったことがわかる。 ──
光泰は、信西の首を携
え、ひとまず、京の神楽ケ岡の自分の宿所まで帰った。そして、それがもう深夜であったから、取りあえず官へ報告だけをしておいた。 すると、明けて十四日の朝、待ちきれない物でも見るように、信頼は惟方と、ひとつ牛車に同乗して、自分の方から、信西の首を実検に出向いてきた。 そのくせ、変わり果てた信西の首「級と、対したときは、 「おお、怖
・・・・」 と、女のように、面をそむけ、黒々と鉄漿
を染めている歯の根をカチカチと、いつまでもわななかせていた。 次の日、首は大路を渡して、獄門に梟
けられんと、布令
された。今日の上下は河原に市をなして見物した。信頼、惟方、経宗、義朝なども、車を立ててそれを見た。──首級がその前を渡されて行く時、
「信西の首が二つほどうなずいて通った ──」 というおかしな風説がその日のうちにぱっと伝えられた。 「ばかな」 と一笑に付す人もあり、 「さもあらめ」 と、首の真似してうなずき者もあった。人心がいわせ、人心が持ちまわるのである。もう微妙な底流のものが、うずいている兆
しともいえる。 信西の子息やら身寄りの者十九名も、あちこちで捕らわれてことごとく斬られた。かつては、保元の戦後処理に当たり、日ごと日ごと、かれが河原で斬らせていた通りに、今は、かれの骨肉たちが打ち首にされていた。 朝令三百余年のあいだ廃されていた死刑の法律を復活させたかれが、まる三年もたたぬうちに、西の獄
の木に、首となって、梟けられているのを見ては、たれもが、なにか自然の皮肉に肌
を粟
にせずにいられなかった。 |