街は、急速に、平常に返った。けれど、新院方と見られる逃亡者の追捕
は、峻烈
をきわめている。 洛内の辻々
には、なお、厳戒令が布
かれたままだし、五畿七道の関所口も固められ、旅人の胆をくすめさせているという。 ──
おりふし、街中では、しきりに、こんなことが、言われていた。 「自首して出れば、特に、その者は、御赦免になるというお沙汰
じゃないか」 「いや、名ある人びとは、免
されもしまいが、重罪たる者も、なるべく、罪は軽くという朝廷の思
し召しだとか」 「新院は御出家あそばすし、悪左府も、矢に中
たって、落命された。あとは皆、余儀なく加担した衆ばかりと言うてよい」 「これ以上、血で血を洗うようなこともあるまいて」 べつに高札が立ったわけでもなし、出所も不明なちまたの取り沙汰に過ぎなかったが、これが風のたよりに聞こえると、各所に潜伏していた逃亡者も、希望的な観測にそそられて、 (命だに助かるならば、こうして隠れているよりは) と、かなたこなたから、自発的に、名のって出た。 左京大夫教長と、近江中将成雅の二人は、洛外の太秦
に出家して潜んでいたが、届け出によって、すぐ、周防判官李実が、召し捕りに、さし向けられた。 四位成隆と、右馬権頭実清は、浄土谷の隠れ家から。 また、皇后宮権太夫師光
、備後守俊通、能登守家長なども、思い思いに、自首して出た。 頼長の末路を、最後まで見とどけた蔵人経憲も、兄の盛憲と一緒に、大和方面で、逮捕された。 なおなお、亡き左大臣の外戚
の者どもたら、一味した滝口
の武者など、毎日、何十人となく、靫負庁
の獄舎
に投げ込まれた。 ここの獄庭では、水問い、火問いなどという苛烈
な拷問が行われ、刑吏の叱咤
と、罪人たちの悲鳴が、ときどき、土塀
の外にまで聞こえた。 戦犯の裁判長には、右少弁惟方
が任ぜられ、大
外記
師業
が、判事となって、毎日のように、吟味をひらき、 “新院御謀反
のこと、ならびに一味調書” とよぶ厖大
なる記録が作られていた。 戦犯者の追及は、ただ、今度の合戦に一味した者だけに止まらない。それ以前の、近衛帝の崩御から、美福門院の呪詛事件にまで及んだ。数年にわたるそれらの関係者を、根こそぎ、洗いたてるものだった。──
俄然
、大恐慌
が起こった。皮肉にも、それは内裏の内からであった。いまは巧みに、勝者の陣営にある者でも、以前の言動を洗われると、いかに、二股
をかけた両面の使い分けに、うまく成功して、何食わぬ顔をしている人間が多かったことか。──
それが表面化しょうとした。 けれど、そこまでは、事実上の追求はなかった。 ただ、やがて戦後の論功行賞のわりふりに当たって、それが、賞勲考査の資料になったことにはちがいない。 ──
こういう抜け目のない、そして、峻烈
な行政手腕をふるっている新朝廷の上官は、いったい、だれかというに、それは久しい間、少納言の局
の机に、背をかがめたまま、鳴かず飛ばずで、凡々と吏務をとっていた例の
── 少納言信西
入道なのである。 典型的な、官僚肌の男、とでもいおうか。 今までは、容易に、その頭角を、局
以外には、現わさないかれであった。 わけて、頼長のいるうちは、ほとんど、来朝の眼のすみにも止まらないように、無能、無言を守っていたかれ。 その信西入道が、ようやく、首をもたげ、廟堂
の上に大きく自己を見せ出したのは、まったく、こんどの戦乱を境とし、特に、戦後処理の行政に、自身、当たってからのことである。 残党狩りの執拗
さも、かれの性格らしいし、また、自主奨励の街の偽説なども、実は、信西の策というのが本当らしい。 恩賞の内議にも、信西は、その考査に当たって、大きな発言を持ち、かれの意見が、基準になった発表とも言われている。 その中で、下野守義朝が、昇殿を許され、左馬頭
に叙
せられtのに較べて、安芸守清盛が、また播磨一国を加えられて、称
えも、播磨守
となったのは、見る者が見ると、非常に、格差のある恩賞だという評があった。 「左馬
寮
ノ頭
といえば、見栄はよく、武将の官職としては、めずらしく高い地位でもあるが、なんと、清盛どのが受けた播磨守は、どう思う?」 「それは、較べ物には、なるまい」 「なるまいがの。──
いかに、寮ノ頭でも、一方は、馬いじりの、馬の司
にすぎぬ。清盛どのが、さきの安芸一国に、また、播磨一国を加えた富とは、重さが違う」 「義朝どのは、見栄のよい名を取られ、清盛どのは実を取ったわけよの」 「そうだ。・・・・由来、瀬戸
内
の海に面した備後、その他には、親の忠盛
どのが領国であったところの、平家の族党が、たくさんいる。されば、前もって、清盛どのから信西入道へ、ぜひ播磨の国を賜え
── と、ないない、請うていたのではあるまいか」 「・・・・かも知れぬよ。あの両家の、親しさからでも」 恩賞の発表には、依怙
、不平の論は、付きものだが、信西入道と清盛の仲は、何か、格別なあいだらしい。どうもただ親しいという程度ではないと、ようやく近ごろになって、周囲も気がつき始めていた。 なんと、迂遠
な衆目だろう。 信西は、早くから、武者の力を牛耳る必要を考えていたし、清盛も、家門の興隆には、廟堂の人物との黙契を、望んでいたにはちがいない。──
そして両者の、妻と妻も、たえず行き交いして、良人
たちの、そうした野心の交易
に、裏面の扶
けをしていたことを、世間は、気づかずにいたらしい。 いまや、二人の黙契の上に、両者の期していた季節が巡って来たわけである。──
清盛が、義朝には、名を取らせ、自分は、実利を取ったのも、 (花は、行く末に、いくらでも) と、将来の夢を、大きく抱いていたためであったとは、後にこそ人も知ったが、この時には、まだたれも感づかずにいた。
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